康有為を買取ります
康有為は清朝時代末期から明朝時代初期にかけて活躍した書家・政治家です。
康有為は公羊学者として知られ、改革の理念を公羊学においた事で孫文らの革命派と対立していました。
公羊学とは、現実の社会を直視して政治の改革と民衆の経済生活の安定を目指す経世済民の学の事で、康有為は機械文明を取り入れるだけでなく、西洋の立憲政治を取り入れ、民衆の権利を認める事によって国民の義務も負わせるようにすれば国は繁栄すると考えました。
ちなみにその手本とされたのが日本の明治維新であったといわれています。
幼い頃から優れた才能を発揮し、儒学・陽明学・仏教を独学で習得していった康有為は、字(あざな)は広厦といい、号は長素で、のちに更生といいました。
香港や上海で欧米の文明や思想に触れ、西欧諸学の訳書をも渉猟し、その学識を広めていきました。
31歳の時には私塾万木草堂を開いて自分の教えを子弟に授け、その5年後には科挙に合格します。
こうして政治的に関わりを持つようになると変法を唱え、革新政治を断行しましたが西太后のクーデターにより失敗に終わり、康有為の実弟を含む同志の数名は逮捕・処刑されてしまう事態となり、日本へ亡命します。
日本では同じく亡命してきた弟子の梁啓超らとともに改良派または保皇党として、清朝の改革を唱えて日本の有力政治家に支援を求める活動を行いました。
しかし、のちに亡命してきた孫文とは対立する事となり、この事は広く知れ渡ります。
また、アメリカやインドを含む世界各地を清朝からの刺客を避けつつ周遊しており、この亡命中の生活資金は支持者からの援助と自らの書を売ることで生計を立てていました。
現在、書画の市場で評価されているのはこの時代に制作された作品が主で、生活のために制作されていたにも関わらず、高い評価を受けている作品も存在しています。
1911年に辛亥革命が起こるとようやく帰国が可能となり、それ以後は拠点を中国国内に移しましたが革命成立後において皇帝を戴いた立憲君主制という理想は古びたイメージを免れず、急速に支持を失ってしまいました。