中国・北京出身の中国の女性の彫刻家です。
全裸を題材とした作品を多く展開しており、一見、リアリスティックに見える作風ですが、動物などは若干自然のものとは異なっており、そのまなざしはまるで人間のように感じる事ができます。
その独自の世界観で表現される作品は全て向京自身で、向京の排泄物だと本人は話しています。
向京は日本語読みではコウ・キョウ、中国語読みではシアン・ジンといいます。
父親は福建映画製作所長までつとめた映画人で、母親は北京で最も有名な文学系出版社の人民文学出版社につとめ、小説の編集などを任されていた人物でした。
そのため、両親は忙しく、近所や両親の仕事仲間に育てられました。
こういった環境下だった事が影響し、向京は幼い頃から純粋に絵が好きで、それが高じて中央美術学院の附属学校を受験し、4年間通いました。
その後、本格的に芸術を学ぼうと決意し、中央美術学院を受験し、成績は合格するには十分だったのですが、最終面接で面接官を怒らせてしまい不合格となってしまいました。
プライドの高かった向京は、中央美術学院を再度受験する気持ちにはなれず、翌年、北京映画学院の映画編集科を受けましたがこちらも難関校といわれており、受験は失敗に終わります。
こうして再び、中央美術学院の彫塑科を受験し、最終面接で模範回答をしたことによって今回は成績トップで合格しました。
中央美術学院では向京は留年して入学していたため、年齢は一つ年下で学年は一つ上の先輩にあたる広慈と出会いました。
広慈は彫刻家として優れた才能を持っており、向京は彼の作品に一目惚れをしました。
それはやがてお互いを意識する事に発展し、向京が卒業すると二人は結婚しました。
向京は卒業してから大衆電影という映画の雑誌社に就職しますが、週に3日間だけの勤務という少し特殊な雇用契約を結んでいます。
その理由としては、自分の作品に没頭したかった事、広慈といる時間を大切にしたかった事が挙げられており、事実、この時の向京は創作意欲に満ち溢れていました。
ずっと北京で暮らしてきた向京ですが、広慈が勤め先の大学での出世争いに負け、杭州美術高校時代の恩師が上海師範大学に美術科を作り、学部長となった事で夫婦揃って講師として招かれ、上海に移り住みます。
こうして夫婦揃って上海で後進の指導にあたりながら、大学の厚意で構内にアトリエを設け、そこで制作活動も行っていました。
しかし、恩師の学部長が大学を去ると向京夫婦に対する風当たりが悪くなり、二人は大学を去る事を決意し、上海でフリーの彫刻家としての道を歩み始めました。
そんな中、父親が倒れ看病のために向京は一時的北京へと戻り、広慈は上海で制作活動を続けていましたが、思うように作品を作る事ができなくなっていました。
一方で、向京は北京オリンピックが開催された事をきっかけに中国でオークションのブームが巻き起こり、独特の世界観を持った作品が次々と売れていくようになります。
そんな中、向京の父親が亡くなった事をきっかけに夫婦そろって北京へ戻りました。
北京に戻ってからは「稀奇」というブランドを立ち上げ、会社として設立すると制作活動に行き詰まっていた広慈を代表取締役社長に就任させ、ビジネス方面でサポートし、夫婦二人三脚で制作活動を行うようになりました。
こうして中国の彫刻家としてその名を世界に広めた向京は、これからの目標を3年に一度ずつ永久の個展を続ける事を定め、自分の精神が宿った作品達の世界をもっと大きな世界にしようと、華奢な体でありながらも精力的に活動を続けています。