中国北宋時代の政治家で、書家、詩人、文学者としての顔を持ちます。
字を魯直(ろちょく)といい、号は山谷道人(さんこくどうじん)、涪翁(ふうおう)などがあり、黄山谷と呼ばれることが多く、宋代の詩人としては蘇軾・陸游と並び称され、書家としては蘇軾、米芾、蔡襄とともに宋の四大家に数えられています。
洪州分寧(現・江西省修水県)の出身で、代々進士を輩出した名家に生まれましたが家庭は貧しく、幼い頃から神童と呼ばれた黄庭堅は必死に勉強に励み、厳しい受験戦争に勝ち残り、22歳で進士に及第しました。
しかし、神宗皇帝と王安石の新法派との意見の対立によって河南・北京・江西・山東などの地方に赴任する事となり、その華やかな生活に終止符を打つ事となりました。
神宗皇帝が亡くなり、旧法派が権力を奪取すると再び中央官僚として活躍する事になりますが、新法派が再度実権を握ると再び左遷され、やがて流刑となり、その地で生涯を終えてしまいました。
黄庭堅は政治家としては不運な人生を歩みましたが、草書、行書に優れている事でも知られており、若い時から好きだった草書は宋代の周越を師として学び、顔真卿、懐素、楊凝式などの影響受け、江蘇省鎮江の焦山の岸辺にある六朝時代の碑文「瘞鶴銘」の書体から啓発を受けて、丸みのある文字が連綿と繋がる独自の草書体を確立しました。
一方、行書は洗練された力強さと独特の創造的書法を持っており、どちらも後世に対して大きい影響を与えました。
また、詩人としても活躍しており、蘇軾の門弟のうち、最も重要な詩人としても知られ、蘇軾と合わせて蘇黄と併称され、古典に関する学識と古人の詩文を借り、そこへ新しい生命力を吹き込む作品を生み出し、南宋詩壇に大きな影響を与えました。