魯迅を買取ります
魯迅とは中国・浙江省紹興市出身の小説家で、翻訳家、思想家としての顔も持っていた事で知られています。
本名は周樹人、字(あざな)を豫才といい、魯迅というペンネームの「魯」は母親の姓だといわれています。
この他にも多くのペンネームを用いて文筆活動を行っており、中国近代文学の祖とされています。
魯迅の生家は祖父が知県も務める中地主としてそれなりに裕福な家庭でした。
将来も約束されたようなものでしたが、祖父が科挙の不正事件で入獄となり、父親も肺の病でこの世を去ってしまった事から没落していき、様々な困難や貧困、偏見といった人情の儚さを思い知らされて育ちました。
その後、18歳のとき南京の江南水師学堂に入学しましたが、その内容に不満を感じて退学し、江南陸師学堂付設の鉱務鉄路学堂に入学します。
ここでは厳復訳による西洋近代思想や変法派系の新聞、雑誌などに触れ、その3年後には官費留学生として日本へ留学します。
日本へは医学の勉強で留学し、牛込の日本語学校・弘文学院の松本亀次郎から日本語を学んでおり、日本語の他にもドイツを学び、世界の文学に広く触れています。
そんな魯迅の人生を大きく変える出来事が起こります。
それは授業中に戦争報道のニュースの映画を見る機会があり、その映画の中で繰り広げられた情景とその映画を見た中国人の反応を見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと思うようになり、文芸活動による啓蒙活動をする事に決め、仙台医学専門学校を退学し、東京で生活を始めます。
しかし、東京では文筆活動は思うように進まず、そんな時、友人銭玄同の金心異に小説を書くよう勧められ最初の小説である「狂人日記」を書きます。
これはすぐには発表せず、帰国してから「新青年」という雑誌で発表し、これをきっかけに様々なペンネームを用いて文筆活動を本格的に始めました。
中国へ戻った魯迅は、南京において中華民国臨時政府教育部員となり、政府の移転に伴って北京へ転居し、北京大学などで非常勤講師として中国小説史の講義を担当しました。
その後も辛亥革命、第二革命、帝政運動、五四運動など次々と起こる中国の改革運動を体験しながら、多くの小説や雑感文などを精力的に発表することによって啓蒙活動を進めた魯迅は、実に多くの作品を残しました。
その作品にみられる特徴の一つとして、欧米語、英語の文法になぞった本来の中国語にはない語法を用いたものが見られ、これは中国語が文法的な精緻さにかけているという発想を魯迅が持っていたからでした。
また、魯迅が発表した中国最初の小説史である「中国小説史略」は散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業によって生み出されたもので、現在でもこの分野を語る際の必読書となっています。