斉白石を買取ります
中国・湖南省湘潭県出身の清朝時代末期から中華人民共和国時代に活躍した画家、書家、篆刻家で、現代中国の巨匠と呼ばれています。
北京芸術専科学校教授、中国美術協会主席を歴任しており、陳半丁、陳師曽、凌文淵と共に「京師四大画家」と称されています。
日本で行われた絵画展に出品し、日本はもちろん欧州諸国から高い評価を受けています。
貧しい農家の家に生まれた斉白石は、字を白石、瀕生といい、号は三百石印富翁、寄萍堂主人、借山吟館主者などがあります。
幼い頃から絵を描く事が好きで7歳で塾へ通い初等教育を受けていましたが、家計の問題で学業を続ける事ができず、家業を手伝いながら独学で絵を描き続けました。
少年期に入ると病弱だったため農作業を行う事ができず、そのかわりに見習い大工となり、家具職人として働くようになります。
その技量はただの大工にしておくのは勿体ないほどの才能を持っており、その事はすぐに広まりました。
こうして大工仕事のかたわら、表具師出身の蕭薌陔に師事し肖像画を学び、美人画を描くようになります。
27歳になって文人画家の胡沁園のもとで本格的に画の勉強を始め、精緻な花鳥画・鳥獣画を学び、詩文を陳少潘、山水画を地元の画家・譚溥に学び作品にいかしていきました。
同郷の詩友と龍山詩社、羅山詩社を結び書法や篆刻を独学で身につけるなど文人的な資質も培っていきました。
画家以外の活躍も見られ、大工であった事から篆刻の才能にも長けており、鑿を使うように大胆に鉄筆をふるい、拙劣な枯れた作風で人気を得ました。
故郷の争乱事件を避けて、55歳で北京に居宅を定めた斉白石でしたが、農民出身で木工だった事が白眼視され、思うように作品が売れませんでした。
しかし、高名な画家として知られる陳師曽は、斉白石の才能を見出し芸術的な交流を深めると共に様々な形で陳師曽から支援を受けていました。
斉白石は好んで身近な生活の中に息づく草花、魚、虫などを観察して細密に描写する事でその本質に迫ろうとしました。
それは5回に渡り中国全土を歴遊するという行動に繋がっており、この出来事から絵に大胆さが加わったとされています。
また、90歳を超えても1年で600点以上の作品を制作するなど精力的に制作活動を行いました。