中国・浙江省紹興出身の清朝時代に活躍した書画家、篆刻家です。
10代ではじめたという文人画は徐渭、陳淳、石濤、李鱓らに師事して独自の画風を確立し、書は金石学から書の古法を得て篆書・隷書に優れそこに草書法を加えて斬新なものを生み出し、そこへ水墨画の伝統を踏まえ画と書を一体とみなした作品を展開した事で知られています。
これは近代芸術家の呉昌碩、斉白石をはじめ後世に大きな影響を与えました。
また、篆刻は、浙派の丁敬、黄易、蒋仁、陳鴻寿、徽派の鄧石如、巴慰祖、胡唐と両派の区別なく優れたところを学び、金石文を深く研究し、秦・漢の篆書以外にも範囲を広げ魏晋南北朝の時代までも取り入れ、硬直化した篆刻芸術に新様式を樹立し、趙之謙の一派は新浙派(趙派)と呼ばれました。
誰にでも印を売ることをしなかった為、作品数は少ないながらも文人としての功績が高く評価されています。
代々富商である趙家の次男として生まれた趙之謙は、家にあったたくさんの蔵書によって十分に勉学に励む事ができました。
次第に家は傾いていってしまいますが、15歳から優秀で記憶力が良く、将来有望と期待をされていました。
31歳の時に科挙の一次試験である郷試に合格しますが、太平天国の乱によって一次中断となります。
太平天国の乱が落ち着いた頃、科挙の二次試験でもある会試を受験しますが、何度受けても試験に落ちてしまい、高級官僚の道を諦めます。
北京で潘祖蔭の知遇を得て43歳の時江西省の知県候補となり、劉坤一の委嘱を受けて『江西省史』の総編集に抜擢されました。
その後は鄱陽県の知県となりましたが、大洪水に見舞われ、民のために職務に尽力した結果病気となってしまいました。
それでも奉新県、南城県に転任しますが、その地でこの世を去りました。