清朝時代末期に活躍した官僚で、満州国の政治家・初代国務院総理をつとめた人物です。
愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の復権のために尽力した事で知られており、中国服を着用し、洋服を着ようとしなかったそうです。
ただし、溥儀が北京脱出の折に乗船した際、記念撮影のため洋服を着たのが唯一の例とされています。
また、書や詩文に優れた才能を持っており、現在の中国の「交通銀行」の字も鄭孝胥が手掛けたものとして有名です。
鄭孝胥は江蘇省蘇州府出身ですが、祖籍は福建省福州府(現・閩侯県)となっています。
そんな鄭孝胥は挙人となってから来日して神戸大阪総領事に就任します。
しかし、日清戦争によって帰国となり、広西辺務督辦(とくべん)として湖北新軍を統率しました。
その後、官職を辞め、張謇(ちょうけん)らと上海予備立憲公会を創設し、立憲運動を進めます。
盛宣懐(せいせんかい)の幕下に入って鉄道国有策を建議し、湖南布政使に任ぜられ計画を実行しようとしましたが、辛亥(しんがい)革命により挫折してしまいます。
こうして清王朝は滅亡してしまいましたが、紫禁城だけは残されました。
その後、溥儀が紫禁城退去の際にも付き従い、日本軍の庇護下に入りつつも溥儀復権のために働きました。
この頃、鄭孝胥には様々な場所へ仕官する話が上がっていましたが、鄭孝胥は頑なにその話を拒んだそうです。
満州国が建国されると溥儀とともに満州へ入り、初代の国務院総理として溥儀を支える存在として活躍します。
しかし、実権を握る関東軍を批判する発言を行った事で辞任に追い込まれ、辞任後も憲兵の監視下に置かれていました。
そのため、建国功労金の引き出しを銀行に拒否されたり、国内旅行が自由にできないなど、不遇な晩年を過ごしました。