会津木綿は福島県に伝わる伝統工芸品で、木綿平織の堅牢な織物として知られ、古くから野良着などとして広く着用されてきました。
その最大の特徴は、紺地に白い縞を織り出したものでしたが、現在では赤、緑など様々な色の縞で織られており、厚みのあるふっくらとした質感を感じるところにあります。
汗をよく吸い込み保湿性に優れている会津木綿ですが、一般的な木綿平織物に比べて縮みにくい性質があるため、家庭でも洗濯する事ができると近年では人気を集めています。
会津木綿の生産地である会津地方で綿花の栽培が行われるようになったのは、天正年間に蒲生氏郷が行った産業振興策がきっかけでした。
その後、寛永4年に加藤嘉明が以前の領国である伊予国松山から織師を招いて、会津に技術を広めた事により、会津木綿が生まれました。
ちなみに当時、伊予の国では外国風の木綿である縞織物を特産品としており、これを「伊予縞」と呼んでいました。
寛永20年になると保科正之が綿花の栽培を奨励し、藩士の妻女の内職として木綿の織物が盛んに作られるようになります。
そこへ会津地方の農業の副作物として栽培されていた藍が組み合わさり、明治時代中頃の紡糸紡績業発達によって大量生産が行われるようになった事で明治末期から大正時代にかけて最盛期を迎えました。
なぜ、会津地方で藍が栽培されるようになったのかと言うと、会津藩内を流れる只見川がよく氾濫していたため、水に強く洪水の時期より早く収穫できる藍が最適だったからとされています。
しかし、昭和時代に入ると需要が急激に減っていってしまったため、生産は縮小され、福島県会津若松市日吉町にある原山織物工場と、福島県会津若松市七日町にある山田木綿織元の2ヶ所のみが生産を行っています。
1627年 伊予から織物の技術が伝わる
1643年 保科正之が綿花の栽培を奨励する
『着物』
『反物』
『エプロン』
『座布団』
『財布』