有松・鳴海絞は愛知県名古屋市緑区の有松・鳴海地区を中心に生産される絞り染めです。
江戸時代以降、日本国内における絞り製品の大半をこの地域で生産しており、国の伝統工芸品にも指定されています。
名古屋市に編入されるまでは有松は知多郡、鳴海は愛知郡に属していた事から有松絞、鳴海絞と個別に呼ばれることもあります。
絞り文様の多様さが特徴で「杢目縫い絞り」「唐松縫い絞り」「折り縫い絞り」「手蜘蛛絞り」などその数は100を超えていますが、現在は需要の減少や後継者不足から技法も大きく数を減らしてしまいました。
しかし、新素材を用いた製品の開発や国外の見本市への出品など有松・鳴海絞振興のための取り組みが行われています。
有松・鳴海絞が作られている地域の一つである有松は、もともと人家の無い荒地であったため、この地域を通る東海道の治安が悪く、それを改善するために尾張藩は人の住む集落である有松を作りました。
当時、有松は鳴海宿までの距離が近かった事もあり、宿場町としての発展は望めず、しかも稲作に適する土地ではなかったため、あまり知られる集落ではありませんでした。
この地に移り住んだ竹田庄九朗という人物が、名古屋城の築城のために九州から来ていた人々の着用していた絞り染めの服を見た事をきっかけに商売を思いつきます。
それは当時生産が始められていた三河木綿に絞り染めを施した手ぬぐいを街道を行きかう人々に土産として売るようになりました。
それは次第に有名なものとなり、次々に欲しいという人が現れました。
そんな中、豊後より移住した三浦玄忠の妻によって豊後絞りの技法が伝えられ、有松の絞り染めは大きな進歩を遂げ、この時の技法は「三浦絞り」「豊後絞り」という名で呼ばれ、現在でも伝わっています。
こうして有松での絞り染めが盛んになると周辺地域でも絞り染めが生産されるようになり、特に鳴海が力を注いでいました。
この状況に対して有松は尾張藩に他地域における絞り染め生産の禁止を訴え、尾張藩は有松のみ絞り染めの営業を認める独占権を与えました。
しかし、全てが有松で生産されていたわけではなく、鳴海やその周辺地域にも工程の下請けが行われており、厳密には有松だけで生産されていたわけではありませんでした。
しかし、豪壮な町並みが作られるようになるほど力をつけた有松は尾張藩の庇護を受けながら絞り染めの独占を続けてきましたが、幕末になると凶作に苦しむ領民の生活扶助のため独占権が解除されます。
明治時代になると鳴海を含む名古屋、大高などの周辺地域にも絞り染めを扱う業者が増え、次第に愛知県以外でも絞り染めが生産されるようになります。
さらに東海道が交通の中心から外れた事も影響し、有松を含む周辺地域では人の往来が少なくなり、次第に衰退していきました。
それでも、新技法の開発によって生産量が増加し、特許を取得してこの特許に守られながら生産が続けられていましたが、第二次世界大戦中は原料を入手する事ができなくなり、また衰退していきました。
戦後、生産が再開されますが、昭和時代では民衆の着物離れや安い海外製品の波にのまれ、全盛期ほどの活気は失われながらも、現代に合った有松・鳴海絞の開発を行い、生産が続けられています。
『着物』
『反物』
『ハンカチ』
『ひざかけ』
『エプロン』
『浴衣』