伊勢崎絣は群馬県伊勢崎市とその周辺地域で生産されている絣織物の事で、産地として形づくられたのは17世紀後半になってからでした。
明治から昭和時代にかけては「伊勢崎銘仙」の名で全国に知られていました。
ちなみに「銘仙」の由来は、江戸時代に緻密な織りものを「目専」または「目千」と呼んだのが関係していると言われています。
伊勢崎絣の最大の特徴は十字絣や井桁絣などの単純な柄から、細密で複雑な柄まで幅広い表現が可能な事で、括り絣、板締め絣、捺染加工などの技法が用いられ、絹の風合いを生かした絣である事です。
伊勢崎絣はもともと、農家の人々が自家用に生産していたもので、太織と呼ばれる残り物の繭から引き出した生糸を用いて織られていました。
江戸時代中期にその基礎が築かれ、丈夫でお洒落な縞模様が生まれ、伊勢崎絣は庶民たちの間で人気が高まっていきます。
こうして江戸、大坂、京都などにも出荷されるようになった伊勢崎絣は明治時代に入ると近代的な染織と織物技術が海外からもたらされ、絣に用いられる糸も手紡ぎ糸から機械による撚糸を使うようになり、大量生産が可能となりました。
また、学習院の院長だった乃木希典が伊勢崎絣を高く評価した事により、学習院の制服に伊勢崎絣が起用されるなど、その名声は更に高まってきます。
しかし、昭和時代に入ると日本人の洋装化や戦争による生産制限などで衰退してしまいました。
それでも戦後から生産量を徐々に増やし、国の伝統工芸品の指定を受け、現在ではネクタイやテーブルクロス、のれんなど、現代生活にあった製品作りにも力を入れており、伊勢崎絣の伝統を絶やさない努力が続けられています。
1943年 統制品となり、経緯に金糸を入れて織った高級品は贅沢品であるとして販売禁止となる
1956年 292万反という数の生産量を誇っていた
1975年 国の伝統工芸品の指定を受ける
『反物』
『着物』
『テーブルクロス』
『ハンカチ』
『のれん』