喜如嘉の芭蕉布は沖縄県大宜味村の喜如嘉で制作されている芭蕉布の事です。
芭蕉布は13世紀頃から制作されていた数多い沖縄の織物の中でも最も古い織物として知られています。
バナナ(実芭蕉)の仲間である糸芭蕉から糸を採り出しますが、その糸はあまりにも繊細で扱いが極めて難しいため、他の染織物と比べると工程が複雑なものになっています。
それは芭蕉を育てる「畑仕事」に始まり、「原木を剥ぐ」「繊維の採り出し」「糸をつくり」「撚り」「絣を結ぶ」「染め」「織り」「仕上げ」とほとんどが手仕事で行われ、この作業は文明が栄えた現在でも数百年前から変わっていません。
そんな喜如嘉の芭蕉布は琉球王朝時代には、王族がその着物を身につけた他、中国(清王朝)や日本(徳川家)への最上の貢ぎ物としても使われていました。
喜如嘉の芭蕉布の名を世界に広めたのは喜如嘉に住む平良敏子という人物です。
その昔、喜如嘉は船大工が多く、喜如嘉の男たちは名大工としてこぞって那覇へ進出してしまい、村に残された女性たちは芭蕉布を生産する事を仕事とするため、その存在が考え直されました。
こうして喜如嘉の芭蕉布は独学で発達していった部分が多く、柄は経絣が主で、特に規格などなく、藍染のできる人は少なかったため、車輪梅を用いる赤染が盛んに行われていました。
昭和時代に入り、喜如嘉の芭蕉布は品質・生産量共に著しく向上し、村の品評会でも喜如嘉のものは他の部落とは分けて審査されるほどとなりましたが、織り上がった製品は仲買人によって安く買い叩かれ、女性たちは布代の前借り金を抱えて苦しい生活を続けていました。
この情況を打開しようとしたのが当時の喜如嘉区長・平良真次で、彼が代表となって大宜味村芭蕉布織物組合が結成されます。
県の補助を受け、喜如嘉、饒波、謝名城に芭蕉布工場が設立され、工場では八重山や県の工業指導所などから技術者や講師を招いて、新たな技法の研究・開発や新製品の試作が行われ、更なる品質向上を目指しました。
しかし、時代は太平洋戦争勃発により、沖縄は史上最悪の地上戦とも呼ばれる戦禍に巻き込まれ、どの土地も壊滅的な状態となってしまいます。
沖縄本島中南部ほどダメージを受けなかった喜如嘉ではアメリカ軍の命令により共同作業の一環として芭蕉布の制作が再開されましたが、工場は台風で倒壊し、道路建設のために閉鎖されてしまいます。
そんな中、平良真次の娘・平良敏子が喜如嘉の地に戻ってきます。
平良敏子は戦争中に「女子挺身隊」の一員として岡山県倉敷市で働いており、戦後は倉敷紡績北方工場に就職していました。
ここでは4名の喜如嘉出身者がおり、大原総一郎社長のすすめで元倉敷民藝館館長の外村吉之介に師事して織りや染めの基本を学び、柳宗悦の民藝運動に深い影響を受け、芭蕉布復興を決意して沖縄に戻ってきたのです。
戦争未亡人らに生産を呼びかけましたが、需要のなくなった芭蕉布は生業としては成り立たず、苦しい時代が続きます。
群島政府主催の産業振興共進会や島生産愛用運動週間で平良敏子の作品が賞をとり、沖展で工芸部門が開設されると出品を始め、喜如嘉の芭蕉布は優れた工芸品として高い評価を受けるようになります。
この事がきっかけで、平良敏子は喜如嘉の女性たちを織り手として雇い、作業の集中化と合理化を進めるとともに新商品の開発を積極的に行うなど、芭蕉布を「産業」として軌道に乗せるために尽力していきます。
こうして時代のニーズに合わせ、日本国内向けに座布団、帯などを手掛け、アメリカ人向けにはテーブルマットやテーブルセンター、クッションなどを制作しました。
沖縄が日本に復帰すると同時に、芭蕉布は県の無形文化財に指定され、平良敏子はその保持者としての認定を受け、その2年後には、国指定の重要無形文化財として、彼女を代表とする「喜如嘉の芭蕉布保存会」が保持団体として認定を受けるまでになりました。
喜如嘉の芭蕉布は沖縄を代表する伝統工芸品として認知されるようになると、本土からの注文も増え、買い取り価格も上がっていきましたが、技術者の高齢化と後継者不足により、生産量は徐々に減少しつつあります。
それでも喜如嘉の芭蕉布の品質と社会的評価はますます高まっており、手に入りにくい織物となっています。