山形県出身の昭和~平成時代に活躍した日本の鋳金家です。
主に茶釜を手掛けており、和銑(わずく)と呼ばれる砂鉄を炭で精錬した地金(砂鉄地金)を用いて茶釡の制作を行っていました。
その作風は古作を研究し、斬新な造形を取り入れ、肌はきめ細やかな絹肌、砂肌とした綺麗なものが多く存在し、地文は肌の美しさを強調するため施さないものが多く、波や松、竹などを全面ではなく控えめに配したものや、細かい筋を入れたものを残しています。
「鉄というものは柔らかいものなんだ。硬い鉄で柔らかいものを作りたい。」と生前から口癖のように言っており、柔らかい曲線美と工夫を凝らした地肌、地紋を持った高橋敬典の生み出した茶釜は「敬典釜」と呼ばれるようになり、重要無形文化財「茶の湯釜」の保持者として活躍を見せました。
実家は鋳造業「山正鋳造所」を営んでおり、その一人息子として生まれた高橋敬典は本名を高治(たかじ)といいます。
小学校を卒業するとすぐに家業に従事しており、始めは様々な鋳物を制作していました。
そんな中、漆芸家・結城哲雄の招きで鋳造の制作指導のため山形を訪れていた初代・長野垤至に師事するようになると和銑を用いた茶釜制作を行うようになります。
初代・長野垤至は、芦屋釜、天明釜などの茶釜を歴史的に研究しており、高橋敬典も影響を受け、古作の表現方法を研究し茶釜制作に没頭するようになり、日展で初入選を果たしました。
その後も数々の素晴らしい茶釜の制作を行った高橋敬典は、昭和天皇、皇太子殿下への献上の釜を謹作する大役を任され、知名度の低かった山形鋳物の存在を全国に知らしめる事に成功し、東京都内でも頻繁に個展を行うなど、精力的に活動を続けました。
晩年になっても制作意欲は衰えなかった高橋敬典ですが、体調を崩し入退院を繰り返すようになると、先に亡くなった妻の後を追うように、静かにこの世を去っていきました。
そんな高橋敬典は寡黙で仕事には厳しい典型的な職人肌の人として知られていますが、家族には優しく、ビール好きで戦時中にある料亭に配給されたビールをすべて飲んでしまったという一面も持っていたようです。
また、現在は敬典工房にて高橋敬典がデザイン、監修をしたクオリティの高い釜を制作しており、多くの茶人たちから愛好されています。