千葉県出身の昭和~平成時代に活躍した日本の木工芸師です。
重要無形文化財「木工芸」の保持者として大野昭和斎とともに3番目の認定者という事で知られています。
杢目に変化のある硬く美しい銀色のでる「会津桐」と、細かい柾目の「南部桐」を素材として20~30年かけて乾燥させ作品を制作しており、デッサンを学んでいなかった事から頭の中で立体図を作り、それを設計図として平面に起してから制作をはじめるのが中臺瑞真の特徴です。
そのため、途中で良いアイデアが浮かぶと制作途中でも取り入れる事が多く、はじめに作成した設計図とはまったく違う作品が出来上がる事があります。
祖父が大工だった事が木工芸に進むきっかけとなった中臺瑞真は、14歳で竹内不山に師事し、茶の湯指物を学びました。
竹内不山は桑、桐、杉、檜などの軟木を得意とし、宮内庁御用人の依頼で天皇に献上する箱を制作しており、これらの技術を全て見て覚え、やがて独立しました。
独立してからは日本茶道学会長の田中仙樵に茶道の指導を受け、茶道具を極め、食べるための仕事を得るようになります。
しかし、指物だけでは限界を感じた中臺瑞真は、木材を刳り抜いて作品を作る「刳物」に注目し、客から受ける仕事以外にも展覧会に出品するための作品の発表を始めます。
しかし、展覧会には何度も落選をし、何が原因なのかを考え、最終的には他の誰もがやってない桐を使った刳物を制作しようと試みました。
桐は軟木の中でももっとも軽く軟らかい素材で、加工をするにはとても高い技術力が必要でした。
そのため使用する刃物の研ぎ方までも研究し、ついに中臺瑞真の作風を確立し、日本工芸展で活躍を見せました。
千葉県出身の昭和~平成時代に活躍した日本の木工芸師です。
重要無形文化財「木工芸」の保持者として大野昭和斎とともに3番目の認定者という事で知られています。
杢目に変化のある硬く美しい銀色のでる「会津桐」と、細かい柾目の「南部桐」を素材として20~30年かけて乾燥させ作品を制作しており、デッサンを学んでいなかった事から頭の中で立体図を作り、それを設計図として平面に起してから制作をはじめるのが中臺瑞真の特徴です。
そのため、途中で良いアイデアが浮かぶと制作途中でも取り入れる事が多く、はじめに作成した設計図とはまったく違う作品が出来上がる事があります。
祖父が大工だった事が木工芸に進むきっかけとなった中臺瑞真は、14歳で竹内不山に師事し、茶の湯指物を学びました。
竹内不山は桑、桐、杉、檜などの軟木を得意とし、宮内庁御用人の依頼で天皇に献上する箱を制作しており、これらの技術を全て見て覚え、やがて独立しました。
独立してからは日本茶道学会長の田中仙樵に茶道の指導を受け、茶道具を極め、食べるための仕事を得るようになります。
しかし、指物だけでは限界を感じた中臺瑞真は、木材を刳り抜いて作品を作る「刳物」に注目し、客から受ける仕事以外にも展覧会に出品するための作品の発表を始めます。
しかし、展覧会には何度も落選をし、何が原因なのかを考え、最終的には他の誰もがやってない桐を使った刳物を制作しようと試みました。
桐は軟木の中でももっとも軽く軟らかい素材で、加工をするにはとても高い技術力が必要でした。
そのため使用する刃物の研ぎ方までも研究し、ついに中臺瑞真の作風を確立し、日本工芸展で活躍を見せました。