佐賀県出身の昭和~平成時代に活躍した日本の陶芸家です。
有田焼の名門として知られる酒井田柿右衛門は江戸時代から続く窯元の子孫が代々襲名する名称で、その14代目を襲名しています。
13代・酒井田柿右衛門の長男として生まれた14代・酒井田柿右衛門は本名を正といいます。
細やかな筆使いを濁手作品に絶妙に調和させた作風は、新しい独自の様式を示し、重要無形文化財「色絵磁器」保持者に認定されています。
また、父親である13代と同様に草花文様を得意とし、絵画的な表現が評価されており、濁手作品は無銘、染錦作品は染付にて「柿右衛門」と在銘されているのが特徴です。
絵付けの基礎となる部分を習得するために多摩美術大学日本画科で日本画を学んだ14代・酒井田柿右衛門は、多摩美術学校を卒業すると13代である父親に師事し、父と祖父が蘇らせた濁手の技法も学び、余白の美を追求した柿右衛門様式を築き上げました。
14代・酒井田柿右衛門を襲名する前は本名の酒井田正の名で日本工芸会正会員として活躍し、公募展や個展に出品を続けていました。
アメリカ合衆国で開催された「クローズ・アップ・オブ・ジャパン・イン・サンフラシスコ」にて海外で初出品を果たすとサンフランシスコ市長から名誉市民号を贈られ、国内だけではなく海外でも高い評価を受けるようになります。
柿右衛門製陶技術保存会で意匠図案主任として実技指導にあたっていた14代・酒井田柿右衛門は、原点回帰を求めて食器制作にも精力的に取り組み、Jリーグの地元クラブ・サガン鳥栖のデザインアドバイザーに就任し、JR九州のクルーズトレイン「ななつ星in九州」の洗面所を手掛けるなど活躍を見せました。
このように精力的に活動を行っていた14代・酒井田柿右衛門ですが、がんが見つかり、治療を続けながら制作活動を続け、約5年間の闘病生活の末、この世を去ってしまいました。
1934年 佐賀県で生まれる
1958年 多摩美術大学日本画科を卒業する
1971年 日本工芸会正会員となる
1982年 14代・酒井田柿右衛門を襲名する
日本工芸会理事に就任する
重要無形文化財保持団体代表に就任する
1983年 アメリカ・サンフランシスコ市より名誉市民の称号を授与される
1984年 58年度日本陶磁協会賞を受賞する
1986年 第33回日本伝統工芸展日本工芸会奨励賞を受賞する
1992年 一水会陶芸部運営委員に就任する
第39回日本伝統工芸展で日本工芸会奨励賞を受賞する
1993年 国際陶芸アカデミー名誉会員に就任する
1994年 第41回日本伝統工芸展監査委員に就任する
1997年 佐賀県陶芸協会会長に就任する
1998年 外務大臣表彰を受ける
1999年 九州産業大学大学院芸術研究科専任教授就任する
2000年 有田陶芸協会会長に就任する
2001年 佐賀県立有田窯業大学校長に就任する
重要無形文化財「色絵磁器」保持者に認定される
佐賀新聞文化賞を受賞する
2005年 旭日中綬章を受章する
2006年 有田町名誉町民の称号を授与される
日本工芸会副理事長に就任する
2007年 西日本文化賞を受賞する
2008年 この頃、がんが見つかる
2009年 第56回日本伝統工芸展審査委員に就任する
2011年 サガン鳥栖のデザインアドバイザーにも就任する
2013年 直腸がんにより逝去
1934年 佐賀県で生まれる
1958年 多摩美術大学日本画科を卒業する
1971年 日本工芸会正会員となる
1982年 14代・酒井田柿右衛門を襲名する
00000年日本工芸会理事に就任する
00000年重要無形文化財保持団体代表に就任する
1983年 アメリカ・サンフランシスコ市より名誉市民の称号を授与される
1984年 58年度日本陶磁協会賞を受賞する
1986年 第33回日本伝統工芸展日本工芸会奨励賞を受賞する
1992年 一水会陶芸部運営委員に就任する
00000年第39回日本伝統工芸展で日本工芸会奨励賞を受賞する
1993年 国際陶芸アカデミー名誉会員に就任する
1994年 第41回日本伝統工芸展監査委員に就任する
1997年 佐賀県陶芸協会会長に就任する
1998年 外務大臣表彰を受ける
1999年 九州産業大学大学院芸術研究科専任教授就任する
2000年 有田陶芸協会会長に就任する
2001年 佐賀県立有田窯業大学校長に就任する
00000年重要無形文化財「色絵磁器」保持者に認定される
00000年佐賀新聞文化賞を受賞する
2005年 旭日中綬章を受章する
2006年 有田町名誉町民の称号を授与される
00000年日本工芸会副理事長に就任する
2007年 西日本文化賞を受賞する
2008年 この頃、がんが見つかる
2009年 第56回日本伝統工芸展審査委員に就任する
2011年 サガン鳥栖のデザインアドバイザーにも就任する
2013年 直腸がんにより逝去