中川清司は京都府出身の木工芸家で、重要無形文化財「木工芸」の保持者(人間国宝)で、木工芸の重要無形文化財の認定では7番目の保持者でもあります。
中川清司は釘などの接続金具を使わない事で知られている京都の桶指物師の家に生まれました。
若い時に京都の老舗桶屋「たる源」で修行し、一番といわれるまでになった後に京都白川通りで立ち上げた「中川木工芸」を京都随一といわれる老舗にまで成長させた父、中川亀一に師事します。
しかし、東京に出たいという思いから公務員を2年間ほど経た後に安定が約束されている公務員を辞めて本格的に木工芸の道を歩み始め、父の元で10年間修業を積み独立します。
しばらくするとプラスチック製品が登場し、木工業界は大打撃を受け180軒ほどあった桶指物屋は廃業となります。
しかし中川清司の取引先の料理屋は木製品を使い続けていたことで生き残ることが出来ました。
また当時はプラスチック問題だけではなく銘木の木曽材の規制があり、海外産を使う指示もあって木の単価が随分と上がり、檜(ひのき)が1本500万円ほどとなり、すし屋のカウンターに使われるような1枚木は300万円ほどであったため、どうしようもない状態だったのでプラスチックの普及が更に広まったそうです。
中川清司の作品は主に京料理の老舗で使われており、木の正目を合わせる「柾合わせ」といわれる技法を考案し、指物独自の技術を用いて小さい木片を数百以上から時には千以上繋げ、不思議な文様を描く木画の技法を使った美しい作品や、高品質な日常品も手掛けています。
また取引先である京料理の老舗は良い木を使う事を誇りにし、大切なステータスでもあるため、中川清司は木にこだわり、徳川幕府の御用林があった木曽の檜(ひのき)、椹(サワラ)、槙(マキ)を使い、杉は吉野杉を使用し、良い木材を最高の作品へと生まれ変わらせます。
それに加え素敵な作品を日本工芸展へ出品するために神代杉という土の中に埋もれていた樹齢1000年~2000年クラスの木を使い独特の味と雰囲気をもった作品を完成させています。