本間棗軒は、常陸国小川村(現在の茨城県小美玉市)の出身で江戸時代の医師です。初名は資章、後に救。字は和卿、通称、玄調といい、棗軒は号です。
彼は、稽医館の創始者である父(本間玄有)と祖父(本間玄琢)、そして、養父の道偉も医者という名医一族の中で育ちます。17歳で原南陽に入門し、杉田玄白の息子の杉田立卿に西洋医学、大田錦白に漢学を学びます。麻酔術では、世界に先駆けて全身麻酔の手術を成功させた華岡青洲のもとで、外科及び麻酔術を修得しました。長崎にてシーボルトに種痘を学んだ後帰郷して開業し、水戸藩主徳川斉昭の侍医としての地位を確立しました。大勢の人々を救った功績から徳川斉昭から「救」の名を賜り、藩主からの信頼も絶大でした。
本間棗軒は、漢方と蘭学の両方の良いところを合わせた漢蘭折衷派でありました。種痘に力をいれていたことで有名で、人痘だけではなく牛痘を初めて取り入れたのは本間棗軒でした。
華岡青洲の門下としては最もすぐれた外科医であったとされていますが、青洲から教わった秘術を無断で自身の著書で公開したことで破門されてしまいます。
当時の医者は現代と違って、免許などはなく医師に弟子入りして「○○派」と名乗っていましたので、それぞれの派には医術の秘伝があり門外不出というのが鉄則でした。そのルールを破ったことで、破門となりましたが、これによって、流派ごとに閉じられていた江戸時代の医学が開かれたとも言われています。
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1804年 常陸小川郷(現在の茨城県小美玉市)に代々続く医家の家に生まれます。
1827年 棗軒24歳の時には、当時外科医師として名を馳せていた華岡青洲に師事する。
1827年 華岡青洲の門下に入って約2カ月後、長崎に赴きシーボルトから種痘法を学ぶ。
1837年 『瘍科秘録』十巻を著し、華岡流外科の秘術を公開する
1843年 弘道館内に併殺された医学館にて医学教授を務め、後進の育成に力を入れる。
1846年 痘瘡の症状の予後、種痘の方法やその効果について、著作『種痘活人十全弁』にまとめ上げる
1862年 『内科秘録』十四巻を完成させる。外科だけではなく漢方についての知識もしたためています。