江戸時代の初期、慶長6年(1601年)から元禄8年(1696年)まで造られた丁銀の一つです。
慶長豆板銀と合わせて慶長銀と呼ばれ、慶長大判、小判、一分判とともに慶長金銀と呼ばれています。
表面には「宝・常是」と大黒様の絵が打たれ、時期によって微妙に変化しており、最初期、前期、中期、後期と4段階に分けられています。
後藤庄右衛門と末吉勘兵衛らの建議によって德川家康が堺の湯浅作兵衛に大黒常是と名乗らせ、伏見で造らせたのが始まりです。
大坂を中心とした西日本から北陸、東北の日本海側を中心に流通し、秤量銀貨であった事から実質価値を定めることの合理性や、10進法の分かりやすい計算方法が商人に広く受け入れられ、高額取引用の通貨として中国との貿易に盛んに使用されていました。
その結果、日本での銀の産出量が減っていくと、その価値が下がってしまい、地方まで充分に流通せず、通貨の統一には至りませんでした。