勘定奉行の川井久敬が考案し、明和9年に発行された明和南鐐二朱銀および寛政12年に発行された寛政南鐐二朱銀を総称して古南鐐二朱銀(こなんりょうにしゅぎん)、古南鐐二朱判(こなんりょうにしゅばん)と呼びます。
また、「南鐐」とは良質の灰吹銀(純銀)という意味があり、実際に98%という当時としては極めて高い銀の含有量を誇っていました。
明和年間までは、西日本で銀貨、東日本で金貨が一般的に用いられていました。
しかし、両者の為替レートは日々変化する変動相場制で、何かと不便なところがありました。
それを改めるために金貨の通貨単位である朱を用いた銀貨なのに金貨の扱いとなるようにして、金貨と銀貨の為替レートを固定し、事実上の通貨統一を狙ったものでした。
明和五匁銀を発行した時のように、両替商からは不評でしたが、幕府は両替商にとって不利にならにように対策をとった結果、受け入れられ流通するようになりました。
コレクターの間では造られた時期によって評価額が変わっており、下は千円単位からで上は数十万単の評価額がつけられているようです。