江戸時代に仙台藩が造っていた地方貨幣で、四角形の角を丸めて真ん中に穴があけられている形をしており、「撫角銭(なでかくぜに)」とも呼ばれていました。
青銅ではなく宮城県で産出していた鉄でできており、母銭(銭の型の基になるもの)は銅で出来ていました。
仙台藩は、幕府の許可の下、寛永通宝を鋳造していた事がありました。
その後、天明の大飢饉で藩の財政がひっ迫してしまい、幕府の許可をもらい5年間という期限付きで藩独自の貨幣を造る事になりました。
しかし、財布に入れるだけで壊れてしまうほど質が悪く、藩内でも受け入れられず、5年間の期限を待たずに製造中止となってしまいました。
価値が低下した仙台通宝に目をつけた者が現れ、仙台通宝を買い集め、寛永通宝の銭緡(ぜにさし)と呼ばれる銭を束ねたものに混ぜて不正に利益を得ていました。
仙台藩内でのみ使用されるはずの仙台通宝が江戸まで流入したため、幕府はこれを厳しく取り締まるお触書を出す事になりました。