江戸時代末期かた明治にかけて日本で流通した銭貨で、天保銭(てんぽうせん)とも呼ばれていました。
小判を意識した楕円形をしており、真ん中には正方形の穴があり、表面には「天保通寶」、裏面には「當百」と額面が表記されており、金座後藤家の花押が鋳込まれています。
貨幣価値は100文とされていましたが、実際には質量的に額面の価値はほとんど無い貨幣だったため、経済を混乱させる結果を招いてしまいました。
そして、低コストで偽物を作る事が出来たことで、幕府は地方での銭の発行を「禁制」として認めませんでしたが、各藩による密鋳が横行しますます経済が混乱していきました。
その結果、明治時代に引き換え回収された天保通宝は、正規に発行された数の1億枚以上も上回る数にのぼり、密鋳は全部で2億枚程度は存在したといわれています。
また、密鋳に関わった藩は判明しているだけで、水戸藩、久留米藩、薩摩藩、福岡藩、岡藩、土佐藩、長州藩、会津藩など10を超えていました。