神奈川県出身の大正~平成時代に活躍した洋画家です。
父は海軍省に勤めており、転勤で北海道の根室へ引っ越し、少年時代を過ごし、そこで出会ったのが寺島政司(のちの作家・寺島柾史です)で、意気投合し親友となりました。
根室実業学校に入学しますが、画家になろうと決意し通信教育を始め、学校を中退します。
病気だった母親が亡くなると東京へ出て本格的に絵の勉強を始めるため、日本水彩画会研究所に入所して大下藤次郎に基本的な画技を学びました。
また、美術文芸雑誌を愛読し、ゴッホやセザンヌなどを知り、外国への憧れも強くなっていきました。
しかし、家庭の事情で根室へ戻る事になり、しばらく画業から離れますが、画を学びたい気持ちは抑えられず、今度は外国で学ぼうと決意し、父と弟の面倒を見ながら旅費を稼ぐ為にアルバイトを始めます。
たくさんのアルバイトをした中で、鮭の密漁の監視員のバイトをした時に野生の熊と対峙し、見張り小屋に火をつけて追い払ったり、小学校の代用教員として働いていた時は、趣味のバイオリンを生徒に聴かせていたら、熊が両手を前に揃え、行儀よくおすわりをして聴いていた等と、熊とのエピソードが残されています。
旅費が貯まり、横浜港から48日間もかけてフランスへ渡りました。
船中ではフランス語の勉強に励み、アンリ・マティスに師事し、フランスの風景画をたくさん残しました。
マティスに「色彩の魔術師」と呼ばれるほど明るく美しく豊かな色彩の作品を制作しています。
92歳までフランスで過ごし、日本に戻ってきましたが、100歳の時にパスポートや航空券を用意し、成田空港のホテルに一泊してからフランスへ向かおうとしましたが、体力的に難しく断念したそうです。