大正から昭和時代にかけて活躍した宮城県出身の日本画家です。
本名は栄吉といい、初号には翠岳があります。
花鳥画、歴史画、肖像画など広い作域を持つ日本画家として知られ、古典的で清楚な作風が特徴です。
太田聴雨が生まれてすぐに父と母は離縁してしまったため、母親の愛情を知らずに育ち、「制作の動機は、母を慕う心の永遠化にある」と太田聴雨が話しており、この事が太田聴雨の作品の根底の礎を作ったとされています。
また、太田聴雨の父親は不在な事が多く、役所には祖父の四男として届けられており、祖父のもとで育ちました。
寿司屋を営んでいた祖父からは飯炊き、水仕事、漬物の仕込みといった家業の手伝いをさせられ、11歳の時に祖父が亡くなってからは叔父や叔母のもとへ引き取られた事もあり、常に沈みがちな少年へと育っていきました。
14歳で父のもとへ引き取られ上京した際、川端玉章門下の内藤晴州の内弟子となり、元代の禅僧・煕晦機の「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠」に由来する「聴雨」の画号を用いるようになります。
しかし、食費を負担しきれなくなり、父のもとへ戻ると家計を助けるために不本意ながらも書画屋の仕事に就き、夜画作する日々を送るようになります。
その後、画家仲間たちと青樹会を結成し、当時は文展や院展に出品せず、様々な手を使って青樹会の発展に自分の未来をかけていました。
そんな中、日本画の小団体である高原会、蒼空邦画会、行樹社、赤人社と第一作家同盟を結成しましたが、高原会一派の政治色が強くなった事で青樹会を脱退し、生活のために挿絵を手掛け、画家としての制作活動は一切行いませんでした。
ちなみに青樹会は経済的基盤を持っていなかったため、関東大震災の際に資金難に陥り、解散してしまいました。
前田青邨に入門する機会を与えられ、再出発をした頃、太田聴雨の心の支えは聖書でした。
そのため、院展にキリストを題材にした作品を出品しており、2度の落選を経験した事で題材を一変し、当麻寺の中将姫伝説を題材とした作品で一躍脚光を浴びます。
こうして日本画家としての地位を手に入れた太田聴雨は東京藝術大学助教授をつとめ、伝統的な日本画を守りながらも岩絵の具本来の色を生かした色面を構成した物の形を表す画風を生み出しましたが、画家としてこれからという時に病に倒れ、この世を去りました。
ちなみに文部省買い上げとなった「星を見る女性」は昭和6年に国立科学博物館1号館が完成した時、屋上に設置された日本光学製の20cm屈折望遠鏡がモデルになっているそうで、後に記念切手に使用されるなど有名な作品となっています。