オーストリアの画家で、強烈な個性を持つ画風に加え、意図的に捻じ曲げられたポーズの人物画を多く手掛けた事で知られています。
また、彼の人生を題材とした映画も制作されており、「20代で早世した天才画家」というイメージが強い画家でもあります。
シーレの父親は帝国鉄道の鉄道員をしており、シーレ家は北ドイツ出身でルター派教会牧師、官吏、軍人、医者を輩出した中産階級の家系でした。
シーレは父親の事は深く愛していましたが、母親にその愛情を向ける事ができず、複雑な家庭環境にあったようです。
そのため、女性に対して異常なまでの興味とコンプレックスを抱いており、後に妹との特別な関係や多くの少女たちを部屋に連れ込み、ヌードモデルとするなど奇行が目立ち、逮捕された経験もあります。
そんなシーレが画家としての道を歩むようになったのは、幼少期に学校の美術担当の先生からその才能を認められたからでした。
ウィーンの美術アカデミーに入学し、グスタフ・クリムトと出会い、彼に才能を見込まれて援助されながら、「ドイツ表現主義の流れを汲む画家」「クリムトの後継者」といわれるまでになりました。
しかし、その画風はクリムトとは違うどの型にも当てはまらない、人体構造と性の過剰な表現などシーレの独自のものでした。
4年間同棲した女性がいましたが、ルター派教徒だったシーレは「社会的に許される人間を結婚相手に選ぶ」という理由からその女性を捨て、ルター派教徒で中産階級職人の娘・エーディトと結婚します。
しかし、姉・アデーレとも関係を持っており、エーディトとアデーレをモデルにした作品も多く残しています。
結婚後すぐに第一次世界大戦が勃発し、帝国軍に召集されますが、画家として活躍している事を理由に前線勤務に就くことはなく、戦争中でも空いた時間を使って制作活動を続けていました。
大戦から無事に帰ってくる事ができ、第49回ウィーン分離派展に50点以上の新作を一挙に公開した事がきっかけで注目を浴びるようになり、次々と絵の買取依頼が舞い込むようになりましたが、当時流行していたスペイン風邪(インフルエンザ)によって28歳という若さで亡くなっています。