ロマン派の偉大な画家として有名で、当時のフランスでは文字を読める人が少なく、文字の代わりに挿絵がとても大きな役割を果たしていました。
ドーミエは風刺版画家としても知られており、当時のフランスのめまぐるしく変わる状況を作品として発表しています。
中でもルイ・フィリップ王政を批判する石版画を発表した際は投獄され、罰金も支払う経験をしています。
版画作品は生涯に4000点近くを制作しており、40代の頃から始めた油彩画は300点以上におよび、その他にも彫刻作品なども残しています。
油彩画のモチーフとして描かれているものは、当時のパリ市民の日常生活や最新技術であった鉄道車両の情景など、歴史的資料としても価値のあるものばかりで、大胆な構図と筆使いで表現された作品は印象派や表現主義の絵画を先取りしたものとして現在は高く評価されていますが、ドーミエが生きていた頃はほとんど公開されませんでした。
そんなドーミエはマルセイユのガラス職人の子として生まれました。
父親は文学趣味が強く、詩人として身を立てるため、家族を置いてパリへ向かってしまいました。
その後を追うように母親と共にパリに向かいますが、一家の暮らしは決して豊かなものではありませんでした。
ある日、アレクサンドル・ルノワールという画家に師事する事となり、ティツィアーノやルーベンスの技法を学び、その後、有名な私塾に通いました。
ベリアールという職人から、その当時発明されたばかりだった最新技術である石版画(リトグラフ)の技法を学ぶと、版画作品を中心に手掛けるようになります。
そんなドーミエの才能を見出したのが、挿絵入り風刺新聞を手掛けていたシャルル・フィリポンでした。
彼がドーミエを採用しなければ、ドーミエの作品は世に出回る事もなく、後の画家たちに大きな影響を与える事もなかったのかもしれません。