19世紀のフランスでロマン主義を代表する画家として活躍していました。
世間ではロマン主義の中心的存在と見られていましたが、ドラクロワ自身はそう呼ばれる事を嫌っていました。
「色彩の魔術師」と呼ばれたほど彩色表現に優れており、輝くような光と色彩の調和による対象表現や、荒々しく劇的でありながら内面的心象を感じさせる独自の場面展開で、文学的主題、歴史画、宗教画、肖像画、動物や狩猟画、風景画、静物画などあらゆるジャンルの作品を残しています。
特に影の中に潜む色彩はルノワールなど印象派をはじめとした後世の画家たちにも大きな影響を与えています。
そんなドラクロワですが外交官シャルル・ドラクロワの息子として生まれたとされていますが、ウィーン会議のフランス代表として知られるタレーランが実の父親だという説もあります。
3歳の頃に家族でボルドー地方へ引っ越し、そこで音楽と文学の才能を開花させました。
芸術面に長けていたドラクロワが絵画に興味を示すようになったのが、いとこが住んでいたノルマンディー地方で見た絵画がきっかけで、多くのスケッチ画を残しています。
国立美術学校で絵を学び、実際に起きた事件を題材にした「キオス島の虐殺」をサロンに出品した事で賛否両論を巻き起こし、その後も数々の問題作をサロンに出品しており、入選や落選を繰り返した事が他のロマン主義者たちから注目を浴びる事になりました。
友人のモルネー伯爵の誘いを受け、政府使節団の一員としてモロッコやナイジェリアなどの旅行に参加して強烈な陽光によって表れた光と色彩の重要性を発見し、それを作品にいかすようになり、多くのスケッチや水彩画を残しました。
それ以後は表舞台に出る事が少なくなり、リュクサンブール宮殿、パリ市庁舎など、政府関係の大建築の装飾を数多く手掛けるようになり、体調を崩しながらも亡くなるまで精力的に画家として活動を続けていました。