ユダヤ系イタリア人のアメデオ・モディリアーニは、パリに拠点を置いた画家です。
ハンサムでしたが酒浸りだったといわれています。
幼い頃から祖父に芸術や哲学の話を聞いていたモディリアーニが芸術に興味を持つのは必然で、母の日記からも芸術の才能に気づいていることが記されており、後にイタリアのトスカーナ地方生まれの20世紀を代表するエコール・ド・パリ(特定の政治思想を持たず、芸術運動に加わる事もなく自由を大切にし、各々の出身国の民族性を反映する表現をしていく世界中から集まった画家達)の画家として活躍しました。
モディリアーニは絵画に興味はありましたが生まれた時から病弱でした。
その為、病気療養で気候の良い土地とされるフィレンツェ、ヴェネツィア、ナポリ、ローマ等を巡る旅に出ると芸術都市で触れたシエナ派や古典作品群から大きな影響を受けると故郷を離れ、フィレンツェの美術学校で学び始めます。
後に色彩と明暗の斑点によって自然を表現するマッキア派や複雑な内面や感情を織り込む後期印象派やゴーギャン等が代表される思想や魂などを描く象徴主義などの作品の魅力にも惹かれました。
当時エコール・ド・パリを代表するジャン・コクトー、シャイム・スーティン、モイズ・キスリングやパブロ・ピカソ、ディエゴ・リベラ、モーリス・ユトリロ、藤田嗣治など時代を代表する画家とも交流するが個性の強い独自の洋式と自堕落な生活態度でパリの美術界で孤立し、異端と扱われました。
後に彫刻にも挑戦しますが病弱だったことから断念しますがイギリス人女性のベアトリス・へースティングスと知り合い恋愛関係になったちょうどその頃に本格的に画家として制作活動に励みます。
ベアトリス・ヘイスティングスと知り合ってから3年後にジャンヌ・エビュテルヌとアカデミー・コラロッシで知り合い同棲を始め、その頃には独創的な様式を確立しています。
生涯唯一となった個展を開いた際は裸婦画を出展しましたが警察沙汰となり1日で撤去する事となり、画家として評価され始めた頃に結核性髄膜炎により亡くなってしまいます。
よほど愛していたのか恋人ジャンヌ・エビュテルヌも自宅にて数日後に後を追って自ら命を絶っています。
皮肉なことにアメデオ・モディリアーニの作品は死後急速に高値が付き、異端扱いされていましたが画家として正当な評価を受ける事となりました。
作風としては、エジプトやアフリカ等の原始美術と故郷であるイタリアの情緒性や装飾性を主体とする優美な色彩を使う感性的な特徴を持つシエナ派等を融合させ、縦に伸ばしたような面長の顔とアーモンド形の瞳を持つ人物画で独自の世界を確立しました。
優れた造形性で独特な人物表現は現代美術に大きな影響を与えました。
風景画も描いていましたが作品のほとんどは友人、知人、恋人などの肖像画で、裸婦像や少年、少女を描いた作品がよく知られています。
逸話では4時間程度で作品を仕上げていたと言われています。