広島県出身の日本の洋画家。昭和前期に活躍した。
号の靉川光郎で略して靉光としている。本名は石村日郎(いしむらにちろう)。
10代半ばに広島市の印刷所で図案工として働き、その後大阪の天彩画塾を経て1924年に上京。太平洋画会研究所に通う。井上長三郎、鶴岡政男らと親しく交わり、26年第13回二科会展に初入選。以後一九三〇年協会展、独立美術協会展などで精力的な発表活動に入る。前衛絵画のグループとも交渉をもち39年にはシュルレアリスムをその特色とした〈美術文化協会〉に参加。フランドルの画家ボスを連想させる幻想的な画面は1930年代の時代の状況を画家の内省的な世界のなかで定着させ、とりわけ『眼のある風景』(1938)は日本のシュールリアリズム絵画の代表的な作品として評価されている。
シュールリアリズム風や宋元画風など、特異な画風で知られ、生前に多くの作品を破棄した上、残された作品も原爆で失われたことからその数は非常に少ない。戦時下の状況から、戦争画を描く事を当局より迫られ『わしにゃあ、戦争画は(よう)描けん。どがあしたら、ええんかい』と泣くようにいったとう。
生前は独特な画風から画壇の主流から外れ"異端の画家"とも呼ばれましたが、死後作品が日本人の油彩表現として一つの到達点を示したとして評価を高めました。