東京都出身の大正~昭和時代に活躍した日本の洋画家、陶芸家です。
安井曾太郎、梅原龍三郎と並び、東京芸術大学教授として名を馳せていた洋画家として知られ、晩年には九谷焼の魅力に心奪われ、石川県加賀市に移り住み、九谷焼の創作に没頭した事でも知られています。
そのため、洋画家としては硲伊之助を名乗り、陶芸家としては硲三彩亭を名乗っています。
慶応義塾普通部を中退して大下藤次郎の日本水彩画研究所で学び、その後、表現主義的な美術運動団体ヒュウザン会に参加しており、この時のヒュウザン会の会員の中では最年少でした。
ヒュウザン会は短い活動期間であったため、二科展の第一回展に出品したところ、二科賞を受賞し、画家として順調なスタートをきります。
フランスへ渡った経験も持ち、二度目の渡欧ではアンリ・マティスに師事してフォービズムを学びました。
そのため、作風は明るい色彩と知的な構図の近代的なものとなり、帰国後は一水会の創立に参加し、戦後は美術界の民主化を唱えて日本美術会委員長に就任、東京芸術大学助教授をつとめるなど日本の美術界に大きく貢献するようになります。
その一方で九谷焼に魅了され、拠点を石川県に移し、画家として培った表現力を駆使した九谷焼は高い評価を得ており、一水会に陶芸部門を設立するなど現代九谷に新しい創造性を加えたその功績は大きく、硲伊之助が亡くなった後も硲紘一、海部公子がその遺志を継ぎ、作陶を続け「硲伊之助美術館」が運営されています。
このように晩年は洋画家としてよりも陶芸家としての活動が目立つようになり、生涯に渡って絵画、陶芸ともに多くの作品を残しました。
1895年 東京都で生まれる
1912年 第1回ヒュウザン会展に出品する
1916年 療養のため鵠沼海岸の別荘に居住する
1918年 第5回二科展で二科展賞を賞する
1921年 フランスへ渡る
1926年 春陽会会員に推挙される
1928年 ロゾラン・アデリア・エルビラと結婚する
1929年 フランスから帰国、再び鵠沼海岸に居住する
近所の長谷川路可と交流を深める
1931年 日本版画協会創立に参加する
1933年 二科会会員に推挙される
春陽会退会後、再度フランスに渡り、アンリ・マティスに師事する
1935年 帰国し、妹の住む硲家別荘に時折滞在する
1936年 二科会を退会し、一水会の創立に参加する
1944年 東京美術学校助教授に就任する
1946年 日本美術会の創立に参加する
1947年 第1回美術団体連合展に出品する
日本美術会委員長に就任する
1950年 東京美術学校助教授を辞任する
日本での「マチス展」「ピカソ展」「ブラック展」の開催の交渉に成功する
1951年 この頃より九谷焼の製陶を始める
1956年 日本美術会の委員長に選ばれる
1957年 日本美術会の委員長に選ばれる
1959年 一水会陶芸部を設立する
1962年 石川県加賀市吸坂町にアトリエを構える
1976年 和歌山県文化功労章を受章する
1977年 81歳で逝去
1895年 東京都で生まれる
1912年 第1回ヒュウザン会展に出品する
1916年 療養のため鵠沼海岸の別荘に居住する
1918年 第5回二科展で二科展賞を賞する
1921年 フランスへ渡る
1926年 春陽会会員に推挙される
1928年 ロゾラン・アデリア・エルビラと結婚する
1929年 フランスから帰国、再び鵠沼海岸に居住する
00000年近所の長谷川路可と交流を深める
1931年 日本版画協会創立に参加する
1933年 二科会会員に推挙される
00000年春陽会退会後、再度フランスに渡り、アンリ・マティスに師事する
1935年 帰国し、妹の住む硲家別荘に時折滞在する
1936年 二科会を退会し、一水会の創立に参加する
1944年 東京美術学校助教授に就任する
1946年 日本美術会の創立に参加する
1947年 第1回美術団体連合展に出品する
00000年日本美術会委員長に就任する
1950年 東京美術学校助教授を辞任する
00000年日本での「マチス展」「ピカソ展」「ブラック展」の開催の交渉に成功する
1951年 この頃より九谷焼の製陶を始める
1956年 日本美術会の委員長に選ばれる
1957年 日本美術会の委員長に選ばれる
1959年 一水会陶芸部を設立する
1962年 石川県加賀市吸坂町にアトリエを構える
1976年 和歌山県文化功労章を受章する
1977年 81歳で逝去