【パウル・クレー】絵画の買取作家・取扱い一覧

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パウル・クレー

パウル・クレー
パウル・クレー(1879~1940)
パウル・クレーはスイスの画家で美術評論家でもあります。
作品を見た人々は不思議と描いた作家がどのような人物だったのだろうかと考えてしまうといわれています。
 
パウル・クレーはドイツ系のスイス人で首都のベルン郊外にあるミュンヘンブーフゼーという小さな町で生まれました。
パウル・クレーが1歳の頃に音楽教師でドイツ国籍の父とフランス出身で声楽家の母、3つ上の姉とで一家揃って美しい中世都市といわれている首都ベルンに移住しました。
幼い頃から絵を描くのが好きで祖母から絵の手ほどきを受けていました。
また、小学生の頃にはバイオリンを習い始め、上達が早く腕前は11歳の時にベルンのオーケストラメンバーに選ばれる程で、画家として活動していた後も生涯バイオリンを弾き続けています。
 
パウル・クレーは高校卒業と同時にミュンヘンの美術学校に入学しましたが在学期間は短く、ベルンに戻った後にイタリアを訪れピアニストのリリー・シュトゥンプフと出会い、後に結婚することになりました。
リリーがピアノ教師をしながらパウル・クレーは画家として活動を行い、友人の画家と北アフリカ、チュニジアへの旅で大きな影響を受けパウル・クレーの作品は基盤を築きあげていきます。
この時、残念ながら第一次世界大戦が勃発しました。
自身も従軍する事となり、多くの友人を失いますが、前線に送られなかったために兵舎で絵を描き続けることが出来、大戦中に作品を発表する事でパウル・クレーの名前は広まっていきました。
 
パウル・クレーは第一次大戦後、ドイツに設立された総合造形学校バウハウスに招かれ教鞭をとりながら絵画理論の研究を行い、多くの著作を残しています。
バウハウス退職後はデュッセルドルフの美術学校でも教鞭をとりますがナチス政権設立による前衛芸術の弾圧により危険を感じ、妻のリリーの勧めで故郷スイスのベルンに亡命することになります。
しかし、口座凍結などで経済的に困窮し、ストレスからなのか原因不明の膠原病を発症してしまいました。
難病と闘いながら制作を行いますが作品数も激減し、復調の兆しをみせながらも肺結核を患い60歳でこの世を去りました。

パウル・クレー年表


1879年 スイス・ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーで生まれる
1898年 ドイツ・ミュンヘンに転居する
1900年 ミュンヘンの美術学校に入学するが同年、退学する
1906年 ピアニストのリリーと結婚する
1907年 息子フェリックスが誕生する
1914年 チュニジアを訪れる
1916年 第一次世界大戦に徴兵される
1920年 バウハウスで教鞭をとる
1931年 デュッセルドルフ美術学校に移る
1933年 ナチスに追われ、スイス・ベルンに亡命する
1940年 60歳で逝去

1879年 スイス・ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーで生まれる

1898年 ドイツ・ミュンヘンに転居する

1900年 ミュンヘンの美術学校に入学するが同年、退学する

1906年 ピアニストのリリーと結婚する

1907年 息子フェリックスが誕生する

1914年 チュニジアを訪れる

1916年 第一次世界大戦に徴兵される

1920年 バウハウスで教鞭をとる

1931年 デュッセルドルフ美術学校に移る

1933年 ナチスに追われ、スイス・ベルンに亡命する

1940年 60歳で逝去


パウル・クレー代表作


『忘れっぽい天使』
『カイルアンの眺め』
『ニーゼン』
『花の神話』

『忘れっぽい天使』

『カイルアンの眺め』

『ニーゼン』

『花の神話』


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