パウル・クレーはスイスの画家で美術評論家でもあります。
作品を見た人々は不思議と描いた作家がどのような人物だったのだろうかと考えてしまうといわれています。
パウル・クレーはドイツ系のスイス人で首都のベルン郊外にあるミュンヘンブーフゼーという小さな町で生まれました。
パウル・クレーが1歳の頃に音楽教師でドイツ国籍の父とフランス出身で声楽家の母、3つ上の姉とで一家揃って美しい中世都市といわれている首都ベルンに移住しました。
幼い頃から絵を描くのが好きで祖母から絵の手ほどきを受けていました。
また、小学生の頃にはバイオリンを習い始め、上達が早く腕前は11歳の時にベルンのオーケストラメンバーに選ばれる程で、画家として活動していた後も生涯バイオリンを弾き続けています。
パウル・クレーは高校卒業と同時にミュンヘンの美術学校に入学しましたが在学期間は短く、ベルンに戻った後にイタリアを訪れピアニストのリリー・シュトゥンプフと出会い、後に結婚することになりました。
リリーがピアノ教師をしながらパウル・クレーは画家として活動を行い、友人の画家と北アフリカ、チュニジアへの旅で大きな影響を受けパウル・クレーの作品は基盤を築きあげていきます。
この時、残念ながら第一次世界大戦が勃発しました。
自身も従軍する事となり、多くの友人を失いますが、前線に送られなかったために兵舎で絵を描き続けることが出来、大戦中に作品を発表する事でパウル・クレーの名前は広まっていきました。
パウル・クレーは第一次大戦後、ドイツに設立された総合造形学校バウハウスに招かれ教鞭をとりながら絵画理論の研究を行い、多くの著作を残しています。
バウハウス退職後はデュッセルドルフの美術学校でも教鞭をとりますがナチス政権設立による前衛芸術の弾圧により危険を感じ、妻のリリーの勧めで故郷スイスのベルンに亡命することになります。
しかし、口座凍結などで経済的に困窮し、ストレスからなのか原因不明の膠原病を発症してしまいました。
難病と闘いながら制作を行いますが作品数も激減し、復調の兆しをみせながらも肺結核を患い60歳でこの世を去りました。