ベルギー・リエージュで生まれたオランダ人画家、銅版画家で、主にオランダのアムステルダムで活躍しました。
神話画、歴史画、素描、光と陰影法、遠近法や色彩論、銅版画など絵画芸術の全てを網羅して考察を加えた著作も数多く残しており、オランダ人の解剖学者ホヴァルト・ビドローの解剖書「Anatomia Humani Corporis」の解剖図を描いた事で知られています。
その中でも「大画法書」は江戸時代末期に活躍した浮世絵師・歌川国芳が準拠して作品を制作した可能性が示されており、歌川国芳の作品である「二十四孝童子鑑」がその可能性を秘めているそうです。
ちなみに『大画法書』は江戸期の日本にもすでに入ってきていました。
ヘラルト・デ・ライレッセは父親の仕事場で絵の基礎を学び、大金を生み出す事を学ぶとアムステルダムへ引っ越しをしました。
アムステルダムでは多くの庇護者たちのもとで制作活動を続けていましたが、その庇護者たちの依頼通りに絵を描かず、別の表現で絵を描いていた事から次々と庇護者たちが離れていってしまいました。
その原因はレンブラント・ファン・レインの作画様式をやってみるという誘惑に駆られ、描き続けた事でした。
レンブラントは「光と影の画家」「光と影の魔術師」などの異名を持つ大画面と明暗を画面上に強く押し出したルミニズムの技法を得意とした画家であったため、暗い画面の作品は庇護者たちには受け入れられなかったようです。
しかし、悪い事だけではありませんでした。
レンブラントはデッサン力も高く銅版画もよくしていた画家でした。
ヘラルト・デ・ライレッセも次第にデッサンの大切さや銅版画の表現に力を入れていき、ついにレンブラントから脱却した高いデッサン力の作品を展開していくようになります。
その実力が認められ、オランダ人の解剖学者ホヴァルト・ビドローの解剖書「Anatomia Humani Corporis」の解剖図を描く事となり、一躍有名となります。
しかし、失明という画家としては致命的な出来事が起こり、失明してからは絵を描く事は辞め、多くのデッサンに関する著作を発表しており、多くの画家に影響を与え続けています。
「線の巨匠」と呼ばれたヘラルト・デ・ライレッセの作品はアムステルダム歴史博物館などに所蔵されています。