ピエール=オーギュスト・ルノワールはフランス出身の印象派、ポスト印象派の画家として知られており、穏やかで優しい印象の作風はフランス国内だけではなく日本でも人気があります。
ルノワールはフランスのリモージュで仕立て屋を経営する労働階級一家の7人中6番目の子供として生まれ、4歳の頃に家族全員でパリに移住しました。
そんなルノワールは、幼い頃から画才を発揮していました。
また美声であったため作曲家から声楽を学び、才能が評価されるとオペラ座の合唱団に入る事を提案されています。
しかしルノワールは作曲家の提案を断り、13歳のときに磁器工場での絵付けの仕事を選びました。
ルノワールが絵付けの仕事をスタートして約4年後に産業革命や機械化の影響で職を失う事になります。
この時に画家を目指すことになり、エコール・デ・ボザールで美術を学ぶのと並行して、シャルル・グレールのアトリエに入るとクロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジール、モネの友人であるカミーユ・ピサロなど後の印象派の画家たちと知り合っています。
この時のエピソードでグレールが「君は自分の楽しみの為に絵を描いているようだね」と言うとルノワールは「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」と答えたそうです。
その後ルノワールは写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールやロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワに影響を受けながらサロンへの出品をスタートさせ入選、落選を繰り返します。
ルノワールも召集された独仏戦争勃発から約4年後に第一回印象派展がスタートするとほぼ毎回出品し続けますが、光の効果を重要視しすぎ、形状の正確性を失った純粋な印象主義に疑問を感じ、イタリアへ赴くなど古典主義の研究に励むようになります。
この時期に新古典派の巨匠ドミニク・アングルに影響を受けた作風に変化しており、明快な形態、輪郭線、冷たい色調が目立つようになりました。
それからしばらくするとルノワールに息子が誕生し、「田舎のダンス」のモデルを務めたアリーヌ・シャリゴと結婚しました。
その後、古典主義的な表現から豊満な裸婦画に使われているような暖色を使用した現在評価されているルノワール本来の作風へと変化し晩年まで続きます。
晩年期のルノワールは体調が悪化し、車椅子生活を余儀なくされ、リウマチなどの痛みに耐えながらも最後まで精力的に作品制作を続けていたそうです。