東京都出身の洋画家。
東京市牛込区
新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。
父親は藤田嗣彰。陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。
1955年にフランス国籍を取得。日本国籍を抹消した。
1959年にカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
画風は、パリの風景画や肖像画を手掛け乳白色の地塗を施した画布に線描を生かした独自の技法が特徴。
美術学校卒業後は第1、2回東京勧業展覧会や第1回光風会に出品し入選(光風会)する等したが、1913年~29年まで渡仏しその間に個展活動や、サロン・ドートンヌ会員(審査員)、サロン・デ・チュイルリー会員などに推挙されるなど活躍を示し、特に19年にサロン・ドートンヌに初出品をした際には出品6点中全作品が入選を果たすなどパリでの地位を築く布石となる。
帰国後は再渡仏や外遊をはさみ34年に二科会会員に推挙され、第21回二科会展に滞仏作27作品を特別出品し日本洋画壇に衝撃を与えた。
戦時中日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画
)を描くように要請があった。
『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後、最も多くの戦争画を描いたとして批判され、美術界のすべての戦争責任を負わされる形になり、1947年日本を出、55年
フランスに帰化。二度と日本に戻ることはなかった。
1968年スイスのチューリッヒにてガンの為、死去。日本政府から勲一等瑞宝章
を没後追贈された。