鹿児島県出身の明治時代末期から昭和時代にかけて活躍した日本の洋画家です。
ロマンティシズムと装飾性をからめあわせた、絵画における明治浪漫主義の一頂点を築いた画家として知られ、明治時代末期から昭和時代の日本の洋画壇において長らく指導的な役割を果たしてきた重要な画家としても高い評価を受けています。
また、洋画家・岡田三郎助や日本画家・横山大観、竹内栖鳳とともに第1回文化勲章受章者であった事も知られています。
薩摩藩士の家に生まれた藤島武二は幼い頃から絵に興味を持っていました。
はじめは四条派の画家や川端玉章に日本画を学んでおり、玉堂と号して活動をしていましたが、24歳の時に洋画に転向しました。
日本画を学んだ事は後の作風に大きな影響を与えており、日本的なモチーフを装飾的に表現する独自の画風を築き上げます。
様々なアトリエに学び明治美術会会員として展覧会に出品していましたが、生活は苦しく、それを回避するために教員免許を取得して三重県津市で中学教師として3年間勤務しながら制作活動を続けていました。
東京美術学校の西洋画科が新設されると、同じ鹿児島出身の洋画家・黒田清輝の推薦もあり、助教授に就任する事になり、黒田清輝が中心となって創立した白馬会の会員として活躍を見せるようになります。
その後、文部省から4年間の留学を命じられ渡欧するとフランスでは歴史画を得意とするフェルナン・コルモンに、イタリアでは肖像画を得意とするカロリュス・デュランに師事して本格的な西洋絵画を学んでおり、帰国後は東京美術学校の教授として「藤島教室」を開き、後進の育成に尽力しながら文展や帝展などに精力的に出品を重ねていきました。
また、昭和天皇の即位を祝うため、皇居の学問所を飾る油彩画の制作を委嘱され、「日の出」をテーマに選んだ藤島武二は、その後の10年間各地の日の出を求めて旅をしました。
1867年 鹿児島県で生まれる
1882年 四条派の日本画家・平山東岳に師事する
1885年 川端玉章に入門し、玉堂と号する
1890年 洋画に転向し、曽山幸彦、中丸精十郎、松岡寿に師事する
1891年 生巧館の付属画学校に通う
明治美術会会員となる
1893年 三重県尋常中学校助教諭をつとめる
1896年 白馬会創立会員となる
東京美術学校西洋画科助教授をつとめる
1901年 雑誌『明星』表紙を担当する
(カットや挿絵の製作を含めて6年ほど継続する)
1905年 文部省から絵画研究のため4年間のフランス、イタリア留学を命じられる
1906年 私立アカデミー・グランド・ショーミエールと国立美術学校の専科に学ぶ
1907年 ベルギー、オランダ、ドイツ、イギリスを巡り、各美術館を訪れる
1908年 ローマでフランス・アカデミー院長のカロリュス・デュランの指導を受ける
スイス旅行中、ローマに残しておいた作品の大半が盗難に遭う
1911年 帰国し、東京美術学校教授をつとめる
帝展審査員をつとめ、帝国美術院会員となる
1912年 岡田三郎助とともに本郷洋画研究所を設立する
1913年 川端絵画研究所洋画部新設に伴い、その指導を行う
1918年 東京美術学校改革に伴い「藤島教室」が生まれる
1926年 東京府美術館開館を記念第1回聖徳太子奉讃美術展に出品する
1935年 第10回朝鮮美術展審査員をつとめる
文部省の帝国美術院改組に対して帝展不開催論を新聞に発表する
1936年 第1回新制作派協会展に協賛出品する
1937年 岡田三郎助、横山大観、竹内栖鳳とともに第1回文化勲章受章者となる
1938年 第1回満州国美術展覧会の審査相談役として新京に赴き、中国中南部の戦跡を巡る
1939年 東京美術学校油画科主任となる
1942年 第7回新制作派協会展に特別出品する
1943年 3月19日、脳溢血のため本郷の自宅にて75歳で逝去
1867年 鹿児島県で生まれる
1882年 四条派の日本画家・平山東岳に師事する
1885年 川端玉章に入門し、玉堂と号する
1890年 洋画に転向し、曽山幸彦、中丸精十郎、松岡寿に師事する
1891年 生巧館の付属画学校に通う
00000年明治美術会会員となる
1893年 三重県尋常中学校助教諭をつとめる
1896年 白馬会創立会員となる
00000年東京美術学校西洋画科助教授をつとめる
1901年 雑誌『明星』表紙を担当する
00000年(カットや挿絵の製作を含めて6年ほど継続する)
1905年 文部省から絵画研究のため4年間のフランス、イタリア留学を命じられる
1906年 私立アカデミー・グランド・ショーミエールと国立美術学校の専科に学ぶ
1907年 ベルギー、オランダ、ドイツ、イギリスを巡り、各美術館を訪れる
1908年 ローマでフランス・アカデミー院長のカロリュス・デュランの指導を受ける
00000年スイス旅行中、ローマに残しておいた作品の大半が盗難に遭う
1911年 帰国し、東京美術学校教授をつとめる
00000年帝展審査員をつとめ、帝国美術院会員となる
1912年 岡田三郎助とともに本郷洋画研究所を設立する
1913年 川端絵画研究所洋画部新設に伴い、その指導を行う
1918年 東京美術学校改革に伴い「藤島教室」が生まれる
1926年 東京府美術館開館を記念第1回聖徳太子奉讃美術展に出品する
1935年 第10回朝鮮美術展審査員をつとめる
00000年文部省の帝国美術院改組に対して帝展不開催論を新聞に発表する
1936年 第1回新制作派協会展に協賛出品する
1937年 岡田三郎助、横山大観、竹内栖鳳とともに第1回文化勲章受章者となる
1938年 第1回満州国美術展覧会の審査相談役として新京に赴き、中国中南部の戦跡を巡る
1939年 東京美術学校油画科主任となる
1942年 第7回新制作派協会展に特別出品する
1943年 3月19日、脳溢血のため本郷の自宅にて75歳で逝去