石川県出身の日本の洋画家で、社会や人間の闇を描いた作品が多く、人々に鮮烈な印象を与えています。
それは鴨居玲自身の繊細な美形の優男という容姿も拍車をかけており、容姿と作品のギャップが鮮烈な意外性を生み出しているからでした。
1つの作品に対して100枚以上のデッサンを描いたという鴨居玲の作品は、自画像も多く、自画像とされていない作品も自画像の要素が見られ、鴨居玲の作品は自分の心の内を全て吐き出し、具現化したものなのではないかと言われています。
幼い頃から華奢で病弱であった鴨居玲には活発的な姉がいました。
姉は下着のデザインに革命を起こした下着デザイナーの鴨居羊子である事も知られています。
泣き虫で自己主張を控えていた鴨居玲は唯一自分が思うように振る舞える場所として絵を描く事を好んでいました。
特に絵の道へ進みたいとも思っていませんでしたが、他にやりたい事も見つからなかったため、金沢美術学校に入学します。
卒業してからは一度就職しますが、これが自分の進む道ではないという違和感を感じたため、画家として生きていく道を選択しました。
田中千代服装学園の講師をつとめながら制作活動に励みますが、酒に溺れる事も多く、経済観念にも乏しかったため周囲を困らせる事もしばしばあったようです。
地元の現代美術展では入選、入賞を繰り返すなど画家としての活躍が見られるようになりますが、精神的に不安定だったのでスランプに陥る事も多く、悩んでいました。
そんな中、デザイナーである妻のフランス留学に同行した事がきっかけで諸国遍歴が始まり、パリ、南米、イタリアを放浪した事で自分の目指すものを認識する事ができました。
日本に戻ってからは制作意欲にあふれ、安井賞の受賞を受け、その名が知られていきます。
しかし、常に厭世的、破滅的でいつもどこかに悲愴感を抱いている鴨居玲は自殺願望を口にする事があったそうで、美術評論家・坂崎乙郎とは自分の死に方について語り合うほどの仲でした。
そんな鴨居玲は作品を制作している時に「作品の仕上げ方が思い出せない、2度と思いだせないのでは」という不安を抱え、精神的に極限の状態で制作活動にあたっており、ついにそれが耐えられなくなり、坂崎乙郎に話した通りのやり方でこの世を去ってしまいました。
鴨居玲の心の中の叫びはアトリエに残された数多くの自画像や、パレットに刻まれた「苦しいのです」の文字が物語っていたそうです。