ドイツ出身の芸術家、画家です。
全名はクルト・ヘルマン・エドゥアルド・カール・ユリウス・シュヴィッタースといい、ダダイスム、構成主義、シュルレアリスムなど近代芸術運動で活躍しています。
詩、サウンド、絵画、彫刻、グラフィック・デザイン、タイポグラフィ、そして後にインスタレーションと呼ばれる様々な手法を用いたヨーロッパ・モダニズムの巨匠として有名で、廃物などを利用したコラージュ「メルツ絵画」、インスタレーションの先駆けと言える「メルツ建築」、サウンドアートの先駆けと言える音響詩「ウルソナタ」などを生み出しました。
これらはリチャード・ハミルトン、エドゥアルド・パオロッツィ、ダミアン・ハーストなど、後のイギリス人アーティスト達にも大きな影響を与えました。
ドイツ北部ハノーファー市で婦人服店を営む家に生まれたクルト・シュヴィッタースは、ドレスデンの芸術アカデミーで学びました。
卒業後はポスト印象派の画家として活躍していましたが、第一次世界大戦が進むにつれその作品からは明るさが失われ、暗さが増し、現実主義の色彩へと変化していきました。
クルト・シュヴィッタースはてんかんの発作があったため、徴兵される事はありませんでしたが、戦争の間のほとんどをハノーファー郊外の工場の製図工として過ごしていました。
この経験は後に登場するコラージュ作品を生み出すきっかけともなり、精力的に新しいものを生み出していきます。
しかし、自身の作品がナチス政府に「退廃芸術」との烙印を押されたことで立場が危うくなり、ドイツを離れノルウェーの息子のもとで暮らすようになりましたが、ノルウェーがナチスに占領されると今度はイギリスへ亡命します。
イギリスはナチスとは敵対関係にあったため、クルト・シュヴィッタースは各地の収容所で過ごす事となり、収容所ではメルツ・リサイタルを定期的に開催し、沈黙のパフォーマンスや英語による詩の朗読などを行っていたようです。
クルト・シュヴィッタースのこの様子を見た同じ収容所の芸術家たちからは、「哀れで場違いな人物」と見られており、あまり良い評価を受けなかったそうです。
その後、アメリカの美術大学・ロードアイランド・スクール・オブ・デザインのアレクサンダー・ドーナーから招待状が届いたクルト・シュヴィッタースは釈放され、芸術家として活動を再開します。
しかし、健康面に問題が起こりはじめ、一時的に目が見えなくなり、持病のてんかんも度々起こるようになりました。
最後は心臓発作でこの世を去ってしまいましたが、クルト・シュヴィッタースが残した「メルツ芸術」は戦後の現代美術の中で広く受け入れられ、現在はミュージシャンにもその影響を受けた作品が見られるようになりました。