岸田劉生は日本を代表する洋画家で、大正から明治初期にかけて活躍しました。
生まれは東京の銀座、実業家として大成した岸田吟香の四男(第九子)として生まれた劉生は東京高等師範学校を中退後、白馬会葵橋洋画研究所で黒田清輝に洋画技法を学びます。
劉生は20歳のとき、文芸雑誌である白樺に触れ、ルノワールやゴッホ、セザンヌやマティスなどの作品に衝撃を受けました。その翌年には白樺派の武者小路実篤や柳宗悦らと交友を重ね、彼の描く絵画にも大きな刺激となります。
劉生の画壇への本格的なデビューは1912年に結成されたヒュウザン会の会展で、第1回ヒュウザン会展では14点の作品を出品しました。初期作品での劉生の画風はゴッホやゴーギャン、セザンヌなどのポスト印象派の作品の影響が強く、模倣に近い作品を描いています。
ヒュウザン会には劉生の他に高村光太郎や、斎藤与里などが参加しており、日本では初めての表現主義的な美術運動となりますが、1912年9月結成、1913年5月解散と活動期間は短く、展覧会の開催も2回のみでした。
その後1915年から1922年まで劉生は草土社を主催します。
草土社は1915年現代の美術社主催の洋画展覧会を第1回展として発足し、第2回展から草土社展と名称を変え、木村荘八や中川一政などが主要メンバーとなっていました。この頃デューラーやアイクなど、北方ルネサンスに傾倒していた劉生は自らの画風を写実的神秘派と呼び、写実的作風へと移っていきます。
劉生の作品でよく知られている岸田麗子の肖像画を描き始めたのが丁度この時期で、肖像画の最初の作品「麗子五歳之像」は1918年に完成しました。
麗子をモデルとして肖像画は立像、坐像、着物姿、洋服姿と、バリエーション豊富で表現方法も油彩、水彩、コンテと多岐にわたります。劉生は麗子の肖像画を生涯で50点余り描き、麗子5歳の時から本格的に描きはじめられた肖像画は、麗子の成長、劉生の画風の変化を示すものとなっています。
劉生は1929年、38歳の若さで没するまでに幅広い交友関係を築いており、1920年自身が30歳になったことをきっかけに始めた日記からも、その交友関係の広さが窺われます。