【熊谷守一】絵画の買取作家・取扱い一覧

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熊谷守一

熊谷守一
熊谷守一(1880~1977)
岐阜県出身の洋画家。
熊谷孫六郎(初代岐阜市市長・衆議院議員)の三男として生まれた。
日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。
しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。
「二科展」に出品を続け、「画壇の仙人」と呼ばれた。

写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式、極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイルを確立した。
自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた画家で、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残した。
墨の濃淡を楽しみながら自由 に描かれた墨絵、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもした。
摺師との仕事を楽しんで制作した木版画 も残されている。

42歳で結婚し、5人の子供をもうけたが、次男の陽が4歳の時に肺炎で亡くなり、長女の萬が20歳の時に結核でなくなり、その時の事を作品として残している(『陽の死んだ日』『ヤキバノカエリ』『仏前』など)。
轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。

自らチェロやヴァイオリンや三味線を奏でる音楽愛好家でもある。
作曲家の信時潔とは30代からの友人で、後に信時の娘と守一の息子が結婚するほど親しい間柄だった。
97年の生涯のうち、晩年の30年間は全く外出せず、わずか15坪の庭の自宅で小さな虫や花を描き続けた。
面と線だけで構成された『赤蟻』など、その独特な画風は現在高い評価を得ている。

熊谷守一年表

1880年 4月2日地主で機械紡績を営む事業家の家に生まれる。

1897年 慶應義塾普通科に一学期のみ通学。

1898年 共立美術学館入学。

1900年 東京美術学校入学。長原孝太郎、黒田清輝に師事。 同期生青木繁・和田三造・山下新太郎・児島虎次郎。

1904年 東京美術学校選科卒業。 卒業制作「自画像」。

1909年 第三回文展「蝋燭」を出品 褒状を受ける。

1915年 上京。第2回二科展「女」出展。

1922年 大江秀子と結婚。

1929年 二科技塾開設 参加。後進の指導に当たる。

1938年 野間仁根と二人展。藤田嗣治と野間仁根と日本画3人展を開催。

1947年 二紀会創立 参加。

1951年 二紀会退会。無所属作家となる。

1956年 脳卒中。以降写生旅行を断念。

1968年 文化勲章辞退。

1972年 勲三等叙勲辞退。

1976年 洋画商展出品「アゲ羽蝶」(絶筆)。

1977年 8月1日、肺炎で逝去。享年97

熊谷守一代表作

『陽が死んだ日』

『ヤキバノカエリ』

『裸婦』

『朝日』

『白猫』

『漁村』

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