岐阜県出身の洋画家。
熊谷孫六郎(初代岐阜市市長・衆議院議員)の三男として生まれた。
日本の美術史
においてフォービズム
の画家と位置づけられている。
しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画
に接近した。
「二科展
」に出品を続け、「画壇の仙人」と呼ばれた。
写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式、極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイルを確立した。
自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた画家で、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残した。
墨の濃淡を楽しみながら自由
に描かれた墨絵、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもした。
摺師との仕事を楽しんで制作した木版画
も残されている。
42歳で結婚し、5人の子供をもうけたが、次男の陽が4歳の時に肺炎で亡くなり、長女の萬が20歳の時に結核でなくなり、その時の事を作品として残している(『陽の死んだ日』『ヤキバノカエリ』『仏前』など)。
轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。
自らチェロやヴァイオリンや三味線を奏でる音楽愛好家でもある。
作曲家の信時潔とは30代からの友人で、後に信時の娘と守一の息子が結婚するほど親しい間柄だった。
97年の生涯のうち、晩年の30年間は全く外出せず、わずか15坪の庭の自宅で小さな虫や花を描き続けた。
面と線だけで構成された『赤蟻』など、その独特な画風は現在高い評価を得ている。