岡山県出身の日本の洋画家で、20世紀前半にアメリカを活動拠点として活躍し、アメリカ画壇の確固たる地位を獲得した事で知られています。
作風は風景、動物、静物、女性像などをモチーフに象徴的に描写したもので、東洋趣味とモダニズムのユニークな混合などと言われました。
しかし、この描法がアメリカ象徴画において基盤となるほどの影響力を与えたといわれています。
あまり、多くの色を使わなかった事でも知られ、かわりに中間色の微妙な色合いをとても大切にした画家で、真似できない国吉康雄が出す中間色に対して批評家たちは「クニヨシ・ブラウン」とか「クニヨシ・ホワイト」と名付けて賞賛を惜しまなかったそうです。
17歳という若さで単身アメリカへ渡った国吉康雄はシアトルで鉄道工夫、農業労働者、ホテルの雑役夫など絵の勉強どころか就労に励んでいました。
それは、絵を学ぶための資金作りであり、ロサンゼルスに移った国吉康雄は肉体労働に従事する傍ら、公立学校に通い、その後スクール・オブ・アート・アンド・デザインに入学してやっと絵の勉強を開始します。
様々なアートスクールに通い、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学した頃の国吉康雄は、これまでに培ってきた交友関係や勉学で技術的にも哲学的にも芸術家としての素質と基盤を築き上げていました。
そこからの活躍はめまぐるしいもので、資産家のハミルトン・イースター・フィールドから生活の援助を受けるようになるとアメリカ的モダニズムへと作風が進んでいきました。
ニューヨークダニエル画廊にて初個展開催以降、毎年、ダニエル画廊で個展を開催しており、ニューヨーク美術館主宰の19人のアメリカ洋画家展の一人に選出されるなど、アメリカ画壇の中心的存在となっていきます。
アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークをはじめ数多くのアートスクールで指導を行う一方で、アーティストの地位向上のためにも尽力しました。
人生のほとんどをアメリカで過ごした国吉康雄ですが、父親が病に倒れた際、見舞うために一時帰国をしています。
この時に東京と大阪で個展を開催していますが、これが最後の個展、帰国となりました。
アメリカの帰化法が改正され、アメリカ国籍を取得できなかった国吉康雄ですが、アメリカ画家としてその存在をアメリカ画壇に刻み込みました。
1889年 岡山県で生まれる
1906年 岡山県立工業学校を中退し、単身アメリカへ渡る
1910年 ニューヨークに移り、ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、
インディペンデント・スクール・オブ・アーツで学ぶ
1916年 アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学し、ケネス・ヘイ・ミラーに師事する
1921年 ニューヨークのダニエル画廊で初個展を開催する
1928年 ヨーロッパの旅行を契機にして、従来の幻想的画風から写実的な表現へと大きく変化していく
1929年 ニューヨーク近代美術館の「19人の現存アメリカ画家」展に出品する
1931年 カーネギー・インスティテュート主催の国際美術展で佳作を受賞する
1933年 アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークの教授に就任する
1935年 社会的な要素に加え、心理的な側面が色濃くなった作品を発表するようになる
1948年 ホイットニー美術館で、現存作家としては初の回顧展を開催する
1952年 第26回ヴェネツィア・ビエンナーレに、アメリカ代表として出品する
1953年 63歳で逝去
1889年 岡山県で生まれる
1906年 岡山県立工業学校を中退し、単身アメリカへ渡る
1910年 ニューヨークに移り、ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、
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1916年 アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに入学し、ケネス・ヘイ・ミラーに師事する
1921年 ニューヨークのダニエル画廊で初個展を開催する
1928年 ヨーロッパの旅行を契機にして、従来の幻想的画風から写実的な表現へと大きく変化していく
1929年 ニューヨーク近代美術館の「19人の現存アメリカ画家」展に出品する
1931年 カーネギー・インスティテュート主催の国際美術展で佳作を受賞する
1933年 アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークの教授に就任する
1935年 社会的な要素に加え、心理的な側面が色濃くなった作品を発表するようになる
1948年 ホイットニー美術館で、現存作家としては初の回顧展を開催する
1952年 第26回ヴェネツィア・ビエンナーレに、アメリカ代表として出品する
1953年 63歳で逝去