シベリア西部・オムスク出身の19世紀~20世紀にかけて活躍したロシアの洋画家です。
画家としてだけではなく、装飾や舞台美術も含め様々なジャンルで活躍した事でも知られ、アールヌーヴォーあるいは象徴主義の作家として活躍を見せました。
法律家の家に生まれたミハイル・ヴルーベリは、フルネームをミハイル・アレクサンドロヴィッチ・ヴルーベリといいます。
サンクトペテルブルク大学法科を卒業していますが、大学で学んだ事がつまらないものに感じ、翌年には帝室美術アカデミーに入学します。
帝室美術アカデミーではパーヴェル・チスチャコフのもとで絵画の基本を学び、何かに憑りつかれたように絵に没頭していきました。
ミハイル・ヴルーベリは初期の作品から優れた才能を見せており、その技量の高さを買われ、12世紀に造られ失われてしまったキエフの聖キリル教会の壁画に代わる新しいものを制作する依頼を受けます。
この仕事を引き受けるにあたり、ミハイル・ヴルーベリはヴェネツィアへ行って中世キリストの美術を学ぶ事を希望し、後に「宝石のごとくきらびやかで豊かな」といわれる色調を生み出す事に成功します。
こうして描かれた聖キリル教会の壁画の評判は高く、その噂はモスクワまで広がり、著名な美術収集家パーヴェル・トレチャコフからは高い評価を受けました。
その後、キエフに戻ったミハイル・ヴルーベリは新しく造られた聖ヴラジーミル聖堂のためにデザインを提出しましたが、新しい試みを取り入れた作品は受け入れられませんでした。
ハムレットやアンナ・カレーニナを題材とした豊かな色調による作品を手掛けていたミハイル・ヴルーベリですが、次第にミハイル・レールモントフのロマン的な長編詩「デーモン(悪魔)」を主題とするスケッチや水彩画を手掛けるようになり、色調も暗いものへと変化していきました。
この画風の変化はミハイル・ヴルーベリの心の病と大きく関係していたようで、次第に大きくなっていきます。
その後、高い評価を受けたモスクワへ移ると絵画のみならず陶芸やステンドグラスにも才能を見せ、舞台セットや衣装の制作に携わるようになり、作品にも制作意欲を感じられるものが多くなっていきました。
しかし、デーモンを主題とした大作を描き、精神的なメッセージを伝えるためにすでに描かれたデーモンの顔を何度も描き直すようになります。
この時のミハイル・ヴルーベリの精神状態は極限なまでに不安定となり、精神病院へ入院させられてしまいます。
そんなミハイル・ヴルーベリの作品を見た民衆は「デーモンが描かれた絵がミハイル・ヴルーベリを狂わせた」と口にしましたが、ミハイル・ヴルーベリの心の闇はもっと前からミハイル・ヴルーベリの心を蝕んでおり、作品が正当に評価されなかった事、生活が困窮していた事、そして最愛の息子が亡くなってしまった事が発病する大きな原因でした。
そんな心の闇に支配されそうになりながらもミハイル・ヴルーベリは入院している間も作品の制作を続けていましたが、画家にとって致命的な失明によって制作活動を続ける事ができなくなり、精神疾患も悪化した事から制作活動を辞め、静かにこの世を去る事となりました。