【三岸節子】絵画の買取作家・取扱い一覧

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三岸節子

三岸節子
三岸節子(1905~1999)
愛知県出身の昭和時代~平成時代に活躍した日本の女性洋画家です。
油彩画で深い精神性をもった重厚なイメージ画を展開した作風で知られ、初期の色彩は暗いブラウン系を多用していましたが、次第にグレーやベージュへと移行し、壮年期の作品には原色に近い鮮やかな色彩を用いているのが特徴です。
女性画家として初めて文化勲章を受章した事で知られ、女流画家協会の創立に発起人として参加し、女性が活躍できる洋画界を築き上げる事に尽力しました。
 
三岸節子は大地主で織物工場を経営している家庭に生まれましたが、裕福であった実家が世界恐慌のあおりを受け、破産してしまいました。
ちなみに母方の一族は安政の大獄で死罪となった水戸藩士・鵜飼吉左衛門の一族でした。
実家の破産は三岸節子にとっても大きなショックでしたが、名誉挽回を心に決め、以前から興味を持っていた絵画で名を上げようと考えるようになりました。
当時、女性が画家として活躍する事はとても難しい時代で、特に画壇の構造は女性画家の活躍を大きく制限していました。
三岸節子はまず誰からも文句を言われない高い技術力を手に入れるために上京して洋画家・岡田三郎助に師事し、本郷洋画研究所に通いました。
その後女子美術学校に入学し、首席で卒業しますが、この時、洋画家・三岸好太郎の子供がお腹の中にいため、卒業と同時に結婚する事になりました。
 
結婚してからも画家として名を上げる事に執着していた三岸節子は、子育てを続けながら制作活動を続けています。
しかし、この頃の作品は子育てのため、外に出る機会も少なかったので室内で描いたものが多く、静物作品や窓から見える風景が主な題材となっていました。
また、同じ画家として活躍する三岸好太郎とはケンカが絶えず、三岸好太郎の女性関係も悩みの種でした。
そんなある日、三岸好太郎が旅先で亡くなったという連絡を受けます。
悩みの種でもあった三岸好太郎がこの世からいなくなった事はまるで自由を得たかのように三岸節子の気持ちを開放的にし、意欲的に制作活動に打ち込んでいき、やがて、10歳以上も歳の離れた洋画家・菅野圭介と激しい恋に落ちます。
菅野圭介は当時、ヨーロッパ帰りの画家だったため、三岸節子にとっては刺激的な人物でした。
女流画家協会の創立に参加し、画業にも忙しかった三岸節子は、別居という形で菅野圭介と結婚しますが、菅野圭介は温かな家庭を築きたかったため、意見が食い違うようになり、やがて破局を迎えます。
 
別居していたとはいえ、三岸節子は菅野圭介の事を心から愛していました。
そのため、破局した頃の作品は画面が重く、暗い色調を多用している作品が目立つようになります。
すべてを一度リセットするためにフランスへ渡り、南仏カーニュに定住し、息子とヨーロッパ各地を巡り、風景画を手掛けるようになると次第に画面は明るさを取り戻していきました。
言葉の通じない異国での孤独感や老化による体の衰えを感じながら20年余りの異国での生活を経て、84歳の時に帰国した三岸節子は日本のみならず、世界でもその名か知られるようになりました。
 
菅野圭介と激しい恋に落ちた三岸節子ですが、その一方で元夫の三岸好太郎の作品を自分の作品と引き換えに入手するなど、三岸好太郎作品の蒐集に励み、三岸好太郎の生まれ故郷である北海道へ寄贈しており、三岸好太郎の事は画家としての才能は十分に認めている事が分かります。
また、三岸好太郎が残したアトリエは三岸節子が自らのアトリエと使用しており、増築などを度々行っていたようです。

三岸節子年表


1905年 愛知県で生まれる
1921年 淑徳高等女学校を卒業する
上京して洋画家・岡田三郎助に師事する
本郷洋画研究所に通う
1922年 女子美術学校2学年に編入し、三岸好太郎と出会う
1924年 女子美術学校を首席で卒業し、三岸好太郎と結婚する
1925年 春陽会展で初入選となる
婦人洋画協会結成に参加する
1932年 春陽会から離れ、独立美術協会展に出品し、入選となる
1934年 夫・三岸好太郎が亡くなる
1935年 独立展で独立賞を受賞する
1936年 長谷川春子ら女性画家7人で七彩会を結成する
1939年 新制作派協会会員となる
1945年 個展を開催する
1947年 女流画家協会を創立する
1948年 洋画家・菅野圭介と別居再婚する
1950年 現代美術自選代表作展に、現代画家の15人の一人として選ばれる
1951年 選奨文部大臣賞を受賞する
1953年 菅野圭介との破局する
1954年 フランスへ渡る
1955年 帰国する
1964年 現在の神奈川県大磯に転居する
1967年 三岸好太郎の遺作220点を北海道に寄贈する
1968年 南仏カーニュに定住する
1969年 女流美術家総合展「潮」の結成に参加する
1974年 ブルゴーニュの小さな農村ヴェロンに移住する
1977年 ヒマラヤ美術館開館し、三岸節子作品室が開設される
1980年 第4回長谷川仁記念賞を受賞する
1982年 帰国する
1986年 勲三等宝冠章を受章する
1989年 神奈川県大磯に定住する
1990年 朝日賞を受賞する
1991年 画業65周年展を開催する
1994年 文化功労者となる
1998年 尾西市三岸節子記念美術館が生家跡地に開館する
1999年 4月18日、急性循環不全のため95歳で逝去

1905年 愛知県で生まれる

1921年 淑徳高等女学校を卒業する

00000年上京して洋画家・岡田三郎助に師事する

00000年本郷洋画研究所に通う

1922年 女子美術学校2学年に編入し、三岸好太郎と出会う

1924年 女子美術学校を首席で卒業し、三岸好太郎と結婚する

1925年 春陽会展で初入選となる

00000年婦人洋画協会結成に参加する

1932年 春陽会から離れ、独立美術協会展に出品し、入選となる

1934年 夫・三岸好太郎が亡くなる

1935年 独立展で独立賞を受賞する

1936年 長谷川春子ら女性画家7人で七彩会を結成する

1939年 新制作派協会会員となる

1945年 個展を開催する

1947年 女流画家協会を創立する

1948年 洋画家・菅野圭介と別居再婚する

1950年 現代美術自選代表作展に、現代画家の15人の一人として選ばれる

1951年 選奨文部大臣賞を受賞する

1953年 菅野圭介との破局する

1954年 フランスへ渡る

1955年 帰国する

1964年 現在の神奈川県大磯に転居する

1967年 三岸好太郎の遺作220点を北海道に寄贈する

1968年 南仏カーニュに定住する

1969年 女流美術家総合展「潮」の結成に参加する

1974年 ブルゴーニュの小さな農村ヴェロンに移住する

1977年 ヒマラヤ美術館開館し、三岸節子作品室が開設される

1980年 第4回長谷川仁記念賞を受賞する

1982年 帰国する

1986年 勲三等宝冠章を受章する

1989年 神奈川県大磯に定住する

1990年 朝日賞を受賞する

1991年 画業65周年展を開催する

1994年 文化功労者となる

1998年 尾西市三岸節子記念美術館が生家跡地に開館する

1999年 4月18日、急性循環不全のため95歳で逝去


三岸節子代表作

『群がる馬』

『花と魚』

『カンナ』

『火の山にて飛ぶ鳥(軽井沢山荘にて)』

『飛ぶ鳥』

『エジプトの鷹』

『ブルゴーニュにて』

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