大阪府出身の大正~昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
重厚な作風で知られている画家ですが、60年の画業のほとんどを風景画に打ち込み、日本の自然を求めて全国に足をのばしていて、特に足しげく通ったのが紀伊半島南部で、南紀の作品を多く残しました。
自ら「風流座」という組織を結成するほど演劇や歌舞伎を好んでいた事は有名な話で、随筆もよく行っており、著書が多い事でも知られ、小説家・宇野浩二と親しくその挿絵を多く描いた事でも知られています。
土佐藩士であった父・田丸良也は堺港に上陸したフランス兵と警備にあたっていた土佐藩士と間に起った衝突事件堺事件に連座し、くじにより切腹をまぬがれた9名のうちの一人でした。
そのため、旧姓は田丸といい、本家の鍋井家を継いだ事で鍋井克之と名乗るようになりました。
大阪府立天王寺中学校に入学した鍋井克之は、松波長年から日本画を学び、絵に興味を持つようになります。
その後、画家を志して東京美術学校を受験しますが、失敗し、白馬会洋画研究所に入り長原孝太郎に学ぶ事になりました。
再び東京美術学校を受験すると合格となり、同期には小出楢重、大久保作次郎がいました。
後に小出楢重とは黒田重太郎、足立源一郎らを交えて大阪信濃橋洋画研究所を設立し、後進の指導に当たっています。
在学中に二科展で活躍を見せていた鍋井克之ですが、東京美術学校を卒業後は渡欧し、帰国してからも二科展に出品を続けていましたが、個展での作品発表も行うようになりました。
そのため、生涯で制作した作品の数は多く、国鉄天王寺駅コンコース壁画「熊野詣絵巻」、浪速短期大学壁画「輝ける学園」を制作するなどの画家として活躍する一方で、浪速短期大学教授、浪速芸術大学教授などもつとめ、後進の指導にも尽力しました。