ニコラ・ド・スタールは抽象、具象ともいえる絵を描いていたロシア出身の画家で残している手紙から詩人のような一面を持つことでも知られています。
ニコラ・ド・スタールは名門貴族で、ロシア最後の皇帝に仕えていたド・スタール・フォン・ホルスタイン将軍と富豪の娘との間にサンクトペテルブルクで生まれましたが、ロシア革命が起こったために一家はポーランドに亡命しています。
ニコラ・ド・スタールは幼い頃に実母から絵の手ほどきを受けていた事もあり、ブリュッセルの王立美術学校に入学し、絵画の研究に励みました。
後にフランス人画家のジャニーヌ・ギユーという女性に出会い、彼女の連れ子と3人で共同生活をスタートしましたが彼女の離婚が成立していない事と彼女の父がロシア人嫌いだった為か正式に結婚は出来ませんでした。
第二次大戦が勃発するとニコラ・ド・スタールは外人部隊に志願し8ヵ月程の軍隊生活を送ります。
画家としては絵が売れず、困窮していたといわれており、家具職人の手伝いや建物のペンキ塗りで生活費を稼ぎ、妻であるジャニーヌ・ギユーは安値で絵を描くのを引き受けるなど奮闘していましたが娘が生まれると更に逼迫し、無理が重なったことからジャニーヌ・ギユーは帰らぬ人となってしまいました。
それからのニコラ・ド・スタールは異常なほど絵画の制作にのめり込んでいきます。
この頃の作品はジャニーヌ・ギユーの肖像や写実的な作品を描き続ける中、自由な表現を求め抽象画を模索していきました。
こうしてニコラ・ド・スタールは英語教師フランソワーズと再婚し、フランス国籍を取得した後、ウルグアイで自身初となる海外個展を開催します。
この個展で作品に徐々に知られるようになり、フランス政府によって作品が買い上げられると経済状況も良くなり、メネルブの古い城を購入し、さらにリゾート地であるアンチーブにアトリエを構えました。
この頃の作品は分厚く重い、ごつごつとしたマチエールの完全抽象から明るい半具象に変化しており、ニコラ・ド・スタールの作品はその時の精神状態が大きく反映している事が分かります。
ニコラ・ド・スタールは成功をより確実にするためにより多くの絵画を制作しました。
油絵は1000点以上にのぼり、ニコラ・ド・スタールが没するまでの最後の2ヶ月で90点もの絵画を残したとされています。
ニコラ・ド・スタールは常に愛を求めていたのか、再婚相手のフランソワーズと長い間別居しており、その間に薬局を営む美しい人妻のジャンヌに出会っています。
詳細は不明ですが、描かれた半具象のヌードの1つは彼女の可能性もあると推測する人物もいます。
しかし破局が訪れると極度の神経衰弱に陥り、眠ることが出来ず、アトリエのテラスの下で亡くなっているのが発見されました。
ちなみにジャンヌとの破局を迎えた時にパリで出会った画商に「僕は失ってしまった。もう何をしたらいいか分からない」という言葉を残していたそうです。