東京都出身の明治~昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
大の雲好き、海好きで知られ、海も大荒れに荒れた悪天候時の海に心惹きつけられるものがあったそうで、作品には雲や海がモチーフとして多数登場しています。
そのため、「雲の絵描き」などと呼ばれ、結核で入院中だった時も病床の窓から毎日のように山と雲を眺めてはスケッチを怠らなかったというエピソードが残されています。
曽宮一念の本名は下田喜七(しもだきしち)といい、新聞社の編集長などをつとめた曽宮六佑の養子となり、曽宮姓を名乗るようになりました。
そんな曽宮一念が小学生の頃、授業で図画の写生法を初めて知ると美術に興味を持つようになり、中学校では美術部に所属しました。
水彩画会研究所の日曜教室では大下藤次郎、丸山晩霞、赤城泰抒らに水彩画を学びましたが北海道大学林学部進学を考えるようになりました。
しかし、父親の希望で東京美術学校を受験する事となり、その準備のため白馬会研究所でデッサンを学びます。
こうして中学を卒業すると東京美術学校西洋画科に入学し、大下藤次郎、藤島武二、黒田清輝に指導を受けます。
東京美術学校在学中に光風会に初入選し、文展で褒状を受けるなど画家としての才能を見せはじめた曽宮一念は、卒業するとアトリエを建て、本格的に画家として活動を始めます。
二科展、国画展など様々な展覧会に出品を重ねた曽宮一念は、奔放な筆触と大胆な色調による独自の風景表現を築きあげましたが、画家としてもまだまだこれからという時に緑内障を患い、視力を失ってしまったため所属していた美術団体を退会し、無所属として活動を続けました。
しかし、視力が完全に失われてしまうと絵を描く事は辞め、文筆にも優れた才能を見せていたため、文筆や書、エッセイなどを発表し、随筆集『海辺の熔岩』は日本エッセイストクラブ賞を受賞するなど晩年は随筆家として活躍しました。