18世紀から19世紀にかけて活躍したフランス新古典主義の画家で、ナポレオンが馬に乗っている絵で有名な「サン・ベルナール峠のナポレオン」の作者としても知られています。
パリの商人の家に生まれたダヴィッドは幼い頃に両親を亡くしており、叔父に育てられました。
絵画の才能は幼い頃から示しており、絵画の大家として知られるフランソワ・ブーシェは母親の従兄弟であり、ブーシェに絵を学ぼうと思っていましたが弟子をとっていなかったため、ブーシェの紹介でジョゼフ=マリー・ヴィアンに師事する事になりました。
こうして長い修行期間を経て26歳で当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を受賞し、当時の画家としては遅咲きのデビューとなりました。
ローマ賞の副賞として国費でイタリアへ留学する制度があり、ダヴィッドも翌年、イタリアへ留学します。
イタリアでは古典絵画の研究に没頭し、ダヴィッドの作風は18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから新古典主義的な硬質の画風へと変化していきました。
フランスに戻ると早速ルイ16世から絵画制作の注文を受け「ホラティウス兄弟の誓い」を完成させ、同時代の画家が「ダヴィッドこそ今年のサロンの真の勝利者である」と大きな評判を集めました。
その後、フランス革命が勃発し、政治家マクシミリアン・ロベスピエールに協力し、政治家としての活動も見られるようになります。
しかし、ロベスピエールの失脚に伴い立場が危うくなり、一時投獄されましたが、妻の力添えやナポレオン・ボナパルトの庇護を受けて復活する事ができました。
ナポレオン政権の間、首席画家、爵位を与えられましたがナポレオンが失脚するとまたもや立場が危うくなり、ブリュッセルに亡命し、時代に翻弄されながらもそこで生涯を終えました。
ダヴィッドは大規模な工房を構え、アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオソン、フランソワ・ジェラール、アントワーヌ=ジャン・グロ、ドミニク・アングルなどのちの新古典主義を担う若い弟子を数多く育てており、作品制作以外でも才能を発揮していた事が分かります。
また、ダヴィッドは英雄を好んで描いており、人物の描写は簡潔で写実的なのに対し、構図や表現は英雄をより英雄らしく見せるために動きに芝居がかったように描いているのが特徴です。