19世紀に活躍したイギリスの画家で、ラファエル前派の一員として知られています。
ラファエル前派とはダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、そしてジョン・エヴァレット・ミレイの3人の画家によって結成された中世や初期ルネサンスの芸術を範とした集団です。
しかし、ミレイは方向性の違いから、この集団から離れ、現在評価されている名声を手にしました。
そんなミレイですが、イングランド南部のサザンプトンの裕福な家庭で生まれました。
幼い頃から優れた画才を発揮していたミレイを見た両親は、その画才を伸ばそうとロンドンへ移住します。
こうして11歳の時にロンドンのロイヤル・アカデミー付属美術学校に史上最年少での入学を許可され、16歳の時にはロイヤル・アカデミーの年次展に入賞する快挙を成し遂げます。
この頃のミレイはアカデミーの創設者のサー・ジョシュア・レノルズが100年も前に確立した教育方法に対し不満を抱くと同時に、当時の画壇への反発を募らせており、同じ意識を持った仲間たちと「ラファエル前派」を結成し、革新的な画法で高評価の作品を次々に生み出します。
その中でも特に有名なのがハムレットの一場面を描いた「オフィーリア」で、非常に高い評価を受けました。
その後ラファエル前派がマスコミの攻撃対象となると評論家ジョン・ラスキンが擁護する意見を述べた事で、ミレイはラスキンに礼状を出し、そこからラスキン夫妻との交流が始まります。
ラスキンの妻であるユーフィミアをモデルにした作品を描くようになると、ラスキンとの不幸な結婚生活に耐えきれなかったユーフィミアはミレイと恋仲となり、結婚を事実上無効とする訴訟を起こしました。
もちろん、当時は妻から夫へ離縁を求める事は極めて異例で「恥ずべき行為」と世間からは非難を受けましたが、無事に婚姻は無効となります。
こういった事を乗り越え、ミレイとユーフィミアは結婚しますが、これまで寵愛を受けてきたヴィクトリア女王からはユーフィミアの謁見を拒否され、ミレイに肖像画を描かせる事も無くなってしまいました。
ミレイの作風は歴史的・文学的主題を写実に基づく明るい色調と細かな部分まで写実的に描いていたものでしたが、家族を養うために細かい作業をしていてはお金にならないとその細かさを失ってきました。
しかし、ミレイは子供を題材にした愛らしい作品や大衆好みの作品を展開するようになり、その名声を保ちました。
こうして画家としては初となる準男爵となり、ロイヤル・アカデミー会長をつとめ、イギリスで一番有名な画家として現在でも多くのファンを魅了しています。