19世紀~20世紀に活躍したフランスを代表する画家で、野生派に分類される画家です。
日本では梅原龍三郎によって初めて「裸婦」という作品が紹介され、ルオーの力強い筆致と豊かな色彩は白樺同人の武者小路実篤、志賀直哉たちをはじめ多くの日本の画家たちに影響を与えた事でも知られています。
そんなルオーですが、パリの指物職人の家に生まれ、家族が住んでいたベルヴィル地区のヴィレットは当時、場末の労働者街という環境下でした。
そのため、14歳でステンドグラス職人に弟子入りをしており、この時の経験がルオーの画風に大きな影響を与えており、のちに黒く骨太に描かれた輪郭線の作品が描かれるようになります。
ステンドグラス職人として修行を積むかたわら、装飾美術学校の夜間に通い、本格的に画家を志すようになります。
こうしてエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学し、アンリ・マティスらと出会った事、象徴派の巨匠ギュスターヴ・モローに指導を受けた事により、自からの画風を確立していきました。
また、モローに対しては敬愛の念が篤く、モローの死後に設立されたギュスターヴ・モロー美術館の初代館長に就任しており、給料は安く生活するにも楽ではありませんでしたが美術館に住込みで働いていました。
ルオーの作品の特徴は、20歳代の初期作品にはレンブラントの影響が見られ、茶系を主とした暗い色調が多く、30歳代になると独特の骨太の輪郭線と宝石のような色彩が多くなってきます。
画題はキリストを描いたもの、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる人々を描いた作品が多いのが特徴です。
油彩画の他にも版画家としても多くの作品を制作しており、特に有名なのが「ミセレーレ」という版画画集です。
そんなルオーはいったん仕上がった作品でも何年にも渡って加筆を続け、納得のいかない作品は決して世に出さず、焼却処分をしていましたが、画商ヴォラールと契約を結んだ事によって作品の所有権をめぐって裁判沙汰となり問題になりましたが、ルオーの主張が認められ、ヴォラールにあった全ての作品はルオーのもとに戻り、約300点以上の未完成作品がルオーの手によって焼却処分されました。