大阪府出身の日本の洋画家。芋問屋の三男として生まれる。
明治42年大阪府立天王寺中学校を卒業後、東京の白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝の指導を受ける。
寺内は「私は毎日毎日描いているが、ちっとも旨くならない。ところが、うまくならんのがありがたいのです。うまくなったらつまらない。うまくならんものを毎日毎日あかないで、ありがたいなと、ほんとうに涙を流しながら描いている。......もうあしたがくるのが待ちどおしいのです」と言っていおり、画人としていつわりのない心情が吐露されています。
寺内は、日本人の裸婦のかたちに愛着をもって、これをモチーフとしています。彼はコローやドランの影響を受け、青灰色や黒をバックに配した質感ある小麦色に輝く日本の裸婦を描き続けた。
「当たり前で奥深いもの」をめざし「デッサンの神様」といわれた描写力により、てらいのない重厚で品位ある作品を描き「裸婦を描く聖者」とも呼ばれた。また、前掲の言葉にもあるように、素朴で温かいその人柄は多くの画家に慕われた。