昭和期に活躍した日本の洋画家。
童話的で暖かな作風が特徴。洋画家、脇田愛二郎は実子。
父の勇は金沢出身の実業家、シンガポールやサイパンに会社を創ったり、ヨーロッパからの輸入品を扱う貿易関係の仕事をしたりと手広く事業を展開していた。趣味も多彩で、絵や骨董、お茶や謡いなどを好み、画会を開いたり、画学生を自宅に招いて襖絵を描かせたりしていた。
家は広壮なもので、敷地に大きな池はむろんのこと、裏には森までがあり、幼い脇田ははバードウォッチングや鳥の写生をして育った。
17際の時、女性像の描写を得意とした洋画家、岡田三郎助の門下生となり本郷研究所入所へ通い始め、後に東京美術学校に入学。在学中、1933年に開催された第14回帝展に初出品し、初入選を果たす(当時22歳)。その後は絵画の道を進み、日展や白日会などにおいて長年活躍し、日本風の表現が美しい歴史に残る洋画家としての道を歩んだ。
はじめは日本画家だったのですが、家具などの買い付けにヨーロッパに出向いた父勇が油絵に魅せられ、いつのまにか脇田は油彩画家へと転向。
大正12年、姉が某商事のベルリン駐在員と結婚するに際し、姉一人では寂しいだろうから同行するようにと父から勧められ、15歳の時にドイツへ留学した。
ベルリン国立美術学校に学び、昭和5年に卒業して帰国するまで足かけ8年間の留学は、画工というべき様々な職人的技術を身につけようと自ら意図したもので、これが、後年脇田が挿絵や版画、コラージュ等を手がける基礎となった。
昭和初期、画壇には東京美術学校閥というものが確固としてあり、留学生が目指すのはたいがいフランスであった。ドイツの美術学校で学んだ脇田には、画家の知人はまったくいないという状況だったが、こうした中で、光風会展や帝展に出品を重ね、若手の画家達と交友を結び、昭和10年から始まる帝展改組の混乱期に、その年改組に反旗を翻した洋画部の画家達によって組織された第二部会展で特選と昭和洋画奨励賞を得て、画家として立つ決心がついた。