群馬県出身の昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
近代日本美術を代表する洋画家として知られ、母校の東京芸術大学で教鞭をとり、後進の指導にあたりました。
コラージュや抽象に取り組み独自の世界を展開した山口薫は、馬、牛、娘、愛犬など身近な存在や自然をモチーフに詩情豊かにキャンバスに描きだしています。
戦国時代、箕輪城が廃城となった頃よりこの地に移り住み着いた旧家の家系に生まれた山口薫は恵まれた環境の中で、11人兄弟の末っ子として育ちました。
群馬県立高崎中学校に入学した山口薫は入学当初から成績優秀で、剣道、テニス、水泳、乗馬もこなす活発な少年でした。
この頃の山口薫は日々の学校生活の中で印象深かった出来事を絵と文字で物語風に構成された日記を書き残しており、14歳の時に当時珍しかった油絵具を姉から買ってもらい油彩画を始めた事が画家を志すきっかけとなります。
高崎中学4年修了時に水戸高校を受験しましたが失敗に終わり、これを機に本格的に画家を志すようになり、東京美術学校を受験するために中学の冬期休暇を利用して川端画学校でデザインを学び、東京美術学校の受験は見事に合格となり、群を抜いた描写力は周りに認められ、2年に進級した際は特待生となりました。
卒業後はパリに渡り、セザンヌ、ゴーギャン、マティスなどの近代絵画に接しながら、西洋絵画の表現を学び、帰国してからは既成画壇には見向きもせずにパリ時代の仲間たちと新時代洋画展、自由美術家協会展、モダンアート協会展を次々と結成し、日本におけるモダンアート運動の中心的な存在として活躍を続けました。
日本国内での名声が高まる一方でサンパウロ・ビエンナーレ展やヴェネツィア・ビエンナーレ展などにも出品し、海外でも高い評価を受けるようになった山口薫は画商から新しい作品を次々と依頼されるようになります。
断る事が苦手だった山口薫は自分のキャパシティを超えた依頼に強い脅迫感を感じるようになり、アトリエに入る際にアルコールの力を借りなければ制作に取り組めないほどとなってしまいました。
これが原因で胃がんを患い、最後の力を振り絞って『おぼろ月に輪舞する子供達』という作品を制作し、亡くなる数か月前に発表しました。