今回ご紹介させていただくお品は、人気浮絵師・安藤広重の最後の作品である『冨士三十六景』全三巻です。
本作品は、安藤広重による富士山をモチーフにした浮世絵風景画を36シーンにまとめたシリーズ画集『冨士三十六景』をアダチ版画研究所がシリアル番号付きの400部限定で制作した希少なお品です。
浮世絵で富士山といえば北斎をイメージする人が多いなか、もう一人の巨匠である広重もまた晩年、庶民の信仰の対象であった富士山を題材に多くの作品を制作しています。
ジャンルを超越して描いた北斎と違い、広重は風景画(名所絵)にこだわった絵師で、富士山をたくさん描いています。また広重の富士は北斎の鋭さとは対照的で、たおやかで優しい富士の魅力を余すところなく伝えています。
安藤広重(歌川広重)は、寛政9(1797)年江戸八代洲河岸(現在の丸の内)に、定火消同心(消防組織に属する下級武士)・安藤源右衛門の長男として生まれました。
相次いで両親が亡くなり、12歳で家督を継いだ広重は、2年後の文化8年、定火消を務めながらも幼い頃より好きだった絵描きで生活費を稼ごうと歌川豊広に入門します。
広重の祖父(入り婿であった広重の父の舅にあたる)が新たに妻を迎え、安藤家に男子が生まれると、その子が元服を迎えた天保3(1832)年、広重は家督を譲り、以降、浮世絵制作に専念します。
前年の天保2年、出世作となる『東都名所』を出版し、同じタイトルの名所絵シリーズをいくつも制作した広重は、天保4年、36歳で出版した『東海道五拾三次』が大ヒットしたのをきっかけに、人気絵師として名を馳せました。
嘉永5(1852)年には『不二三十六景(版元は佐野屋喜兵衛)』、安政3(1856)年から『名所江戸百景』など創作活動に励みますが、安政4年に絵本『富士見百図』初編(20図)、安政5年に『富士三十六景』を描き終えたあと、突然62歳で亡くなりました。その年江戸で猛威をふるっていたコレラが死因だと言われています。
広重は花鳥画・人物画も手掛けましたが、比重としては風景画が高く、何種類もの江戸シリーズ、東海道シリーズなどを手がけています。江戸の日常風景であり、同時にシンボルでもあった富士山をモチーフにしたこのシリーズ作品は発表当初から非常に人気が高く、版元からの注文も集中したと言われています。
その作品の特徴を次のようにまとめてみました。
1つには水のある場所を描いた絵が多い点です。
大部分の絵は富士山と海、川、湖、沼などの組み合わせで、色彩には水色が見立ち、ベロ藍が多く使われています。北斎の特徴としても藍色の多用が挙げられますが、広重のブルーは淡い青色で、ヒロシゲブルーまたはジャパンブルーと呼ばれ、ゴッホを始めとする欧米の絵画に大きな影響を与えました。
2つめは、四季を映し出しているということ。
日本の文化全体の特徴ではありますが、広重の名所絵はその傾向が顕著で、四季ごとに分類することさえできます。また広重は雨・雪・雲・霧など四季の気象も描いています。
3つめは、遠近法を利用した近像拡大構図とよばれる技法を使った大胆なトリミングです。
晩年の作品には縦絵が多く、横に広がっている景色を縦長の画面に押し込めることにより、必然的にデフォルメされた構図となります。「下総小金原」では馬の尻が画面の端から顔を覗かせているし、「武蔵本牧のはな」ではそそり立つ崖、「相模江之島入口」では手前に描かれた大鳥居が画面に奥行きを出す効果が応用されています。
4つめには、北斎がすでに描いた作品と似た構図が多いことです。
史料が残っていないため、北斎がどのように広重を見ていたのかを知るすべはありませんが、広重は37歳年上の北斎をライバル視していたと言われています。広重は当然のことながら北斎の影響を受けましたが、一方で異なる表現で北斎を乗り越えようとしていました。
5つめの特徴は、植物が多種類出てくることです。
草花も多く描かれていますが、花木の中ではとくに桜が目立ち、日本人の桜好きを反映しています。2つめの特徴として挙げた四季の区分とも関係しますが、四季折々の自然と折り合いをつけながら生活していた当時の日本人の様子と風俗をよく表しています。
6つに、鳥の出てくる絵が多いのも特徴で「東都佃沖」の都鳥(ゆりかもめ)や「さがみ川」の白鷺などがその例として挙げられます。
「さがみ川」はゴッホが描いた『ダンギ―爺さん』の背景として模写した浮世絵の一枚としても有名です。
7つには作品自体が時代を反映しているという点です。
浮世絵は浮世(現世)の流行りを描く絵のことで、このことからもジャンルの特徴をよく捉えています。広重の名所絵は風景だけを描いた作品もありますが、人物が登場するものが多くあり、かれらは当時の流行りの髪結いや扮装で、人々の生活や娯楽の様子からも時代が色濃く表現されています。
広重は本シリーズを描き終えて間もなく流行り病に倒れて息を引き取っています。『富士三十六景』が無事、絵草紙屋の店頭に並んだのは翌年安政6年の秋、ちょうど広重の一周忌の頃だと伝わっています。